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パーソナルプロジェクトの勧め (6)
~「アラ還プロジェクト」実行中~

プラネット株式会社 シニアコンサルタント 中 憲治 [プロフィール] :10月号

世界五大陸マラソン完走プロジェクト
Ⅲ.アフリカ大陸編「エジプト・ルクソールマラソン」その2:SMEの活躍
1.エジプト革命に遭遇
ルクソールマラソンは、2011年1月26日(金)に開催された。金曜日は、イスラム教の休日である。この日は歴史に残る日となる。後に「エジプト革命」と称された騒乱の発生の日である。2011年の冬はマグレブ(地中海南岸のイスラム国家群をこう呼ぶ)のチュニジアで民主化運動が発生し、この運動はチュニジアにおける独裁政権の終焉を迎えるまでに至り、近隣のイスラム国家、特に長期間にわたるムバラク独裁政権が続くエジプトへの波及も杞憂されていた。私の長女などは、外資系の金融機関に勤務していることから、地勢的リスクに関する情報もあったのだろう。“今頃エジプトに行くなんて大丈夫?”と心配していたが、私は“ムバラク政権が揺るぐことはないだろう”と高をくくっていた。
火曜日の深夜にカイロに到着、翌水曜日、ギザのピラミッドを見学した後、ルクソールに移動するためカイロ空港に向かう時、カイロ市内では何台もの装甲車を含めた軍用車を見た。その時も、現地ガイドの“デモが激しくて軍が取締りを厳しくしているのです”の説明を受け、“そうなのだ”と納得している程度であった。
ルクソールは、観光地であるが小さな町で、平穏そのもの、木曜日朝のカルナック神殿~ルクソール神殿の“モーニングラン”も町挙げての歓迎を受けた。事態の急変に気付いたのは、金曜日の午前に“ルクソールマラソン”を走り終え、午後ホテルのプールでアイシングも兼ねて休養をとっている時である。BBCテレビがカイロのデモの騒乱の状況を放送しているとの情報を得たときからである。金曜日はイスラム教の休日であり、大規模なデモが予定されているとは聞いていたが、それが騒乱になるとまでは予想だにしなかった。
シャトルバスでルクソールの町までショッピングに行っていた仲間が帰ってきてもたらして情報は、私たちを驚愕させた。“ルクソール市内でも火炎瓶が飛び交い、シャトルバスもそのまま引き返してきた”とのこと。状況はさらに深刻になる。エジプト国内では、空港は閉鎖され、国内便、国際便は一切飛んでいない。インターネットも政府のコントロール下にあり通信網が遮断されている。戒厳令はまだだが、カイロ市内は夜間外出禁止令が発令されている。“帰れない!この後どうなるのだろう?”その時感じた率直な感想である。
未経験な、想定外の事態に遭遇した私たちにとって、マラソンツアー添乗員のM氏が大変頼りになる存在であることがこの後次第に判明してくる。M氏こそSME(サブジェクト・マター・エキスパート)と呼ぶにふさわしい。M氏の情報収集力、判断力により私たちはエジプト革命後の日本への帰国第一便の乗客となることができたのだが、振り返ってみれば、幾つかのマイルストーンにおけるM氏の的確な指示こそSMEと強く感じた。
2.一歩でも前進(SMEの指示 ①)
翌日、朝食をとった後、ホテルのロビーに集合。M氏より参加者全員に、その時点での情報を伝えた。空港は依然閉鎖状態、日本のツアー会社本社とも連絡を取ったが、詳しい状況はわからない、今後の見通しも立たない。現地ガイドの所属する会社から得た情報も、デモは拡大する一歩で、混乱が収束する事態は現状では予測できない、とのこと。M氏の提案は、このような時は、“一歩でも前に進んでおくことが肝心、それはカイロ空港まで行きそこで待機すること”“国内便も止まっており、ルクソール空港からカイロ空港へのフライト再開の目途は全く見えないが、これから国内便の再開に関する情報収集に努めるから、それに応じて適切な時間にルクソール空港まで行き、そこで待機すること”“そのためには荷物はパッキングを済ませ、ホテルロビーで一括保管をしておくこと”などであった。国内便の再開は、早くても夕方以降になるとの情報ももたらされ、午前中はツアー参加者の意向を汲み、ルクソール西岸の「王家の谷」見学、夕方前にルクソール空港へ移動し待機した。
<ルクソール空港での待機、食料・水の確保>
ルクソール空港での待機、食料・水の確保

3.食料と水の確保(SMEの指示 ②)
ルクソール空港は比較的平穏な感じで、フライト待ちの旅行客はいたが、混雑とは程遠い状況だった。ルクソール空港でM氏の指示は、“ここで、出来るだけ食料と水を確保してください、カイロ空港では何も調達できないと考えてください”だった。我々は、半信半疑で空港内のショップで出来るだけの食料と適量の水を準備した。ルクソール空港で4時間余りの待機の後、カイロ空港行きのフライトに搭乗できた。
4.寝床の確保と荷物のキープ(SMEの指示 ③)
午後10時過ぎに到着したカイロ空港は混雑の極みの状況だった。エジプトから一刻も早く避難しようとした観光客やエジプト滞在の外国人が押し寄せているものの、国際線は閉鎖されたまま。国内線の再開によりエジプト各地からカイロ空港に来た旅客が増える一方で時間の経過と共にカイロ空港は益々混雑の度を増していった。M氏の指摘した通り、カイロ空港の各ショップは水や食料は全て売り切れ、空港ロビーはフライト待ちの旅客でどこも溢れていた。我々に与えられた選択肢は、 ①カイロ空港で国際便再開まで待機すること ②カイロ空港近辺のホテルを探しそこに宿泊すること。 ③もともと予定されていたギザ地区のホテルまで移動すること。の3つだった。しかし、 ③は夜間外出禁止令が出ている状況では不可能であること。 ②の選択肢も現地ガイドは懸命に探した結果主だったホテルは満員状況、運よくホテルを探して宿泊しても、ホテルから空港に帰ってくることは保証できない状況であること。などから我々に残された選択肢は ①のカイロ空港ホテル(カイロ空港内でピバーグすることだけだった。ここでのM氏の指示は、国際便のフライト再開は現時点では予測できない、少なくとも翌日まではカイロ空港での待機を余儀なくされる、“よって、長時間待機できるスペースを確保すること”だった。我々はこれを“カイロ空港ラウンジホテル”と名付けた。もう一つの指示は、“ツアー参加者全員の荷物を一カ所に集め、ロープなどで一つに結え、盗難被害を予防すること”だった。
<カイロ空港ラウンジホテル>
カイロ空港ラウンジホテル
カイロ空港ラウンジホテル

5.チェックインへの即応体制(SMEの指示 ④)
“カイロ空港ラウンジホテル”の確保によりそれなりの快適な一夜を過ごした翌朝、カイロ空港は状況が一変していた。2Fの出発ロビーにはチェックインカウンターの前に多くの欧米人が列をなしていた。2Fロビーを良く観察すると欧米人は少ない、所在なく佇んでいるのは、ほとんどがアジア、アフリカ各国の旅客であることが分かった。
M氏と情報交換をすると、欧米各国は政府がチャーター便を手配し、早朝から自国民を出国させているとの事、このような危機事態における欧米各国政府の対応の速さに感心した。
日本の在エジプト大使館は、朝9時ごろ“日の丸”を掲げカイロ空港に現れた。この時点で日本人のカイロ空港での滞在者は約500名、カイロ市内には約5000人が滞在していることが判明した。大使館の話では、現在、日本政府もカイロからローマまでチャーター便を飛ばすことで、エミレイツ航空と交渉中であること。しかし、それは早くとも翌日の午前となる、とのことだった。我々に与えられた選択肢は、①政府チャーターのローマ便に乗ること、②エジプト航空の成田直行便のフライト再開を待つことの2つだった。
M氏の判断は、エジプト航空の再開便に乗ることを最優先として、その為の情報収集に当たることだった。欧米人の出国を横目で見ながらカイロ空港で所在なく過ごすこと半日、 16時ごろから事態が動いた。何処からの情報かは分からないが、M氏が“どうやら今夜の成田便が飛ぶようだ、いざという時に備えて、何時でもチェックインができるように各自荷物を準備すること。連絡が即時に伝わるように出来るだけ近辺に居るよう”との指示があった。出発ロビーのボードが、成田便の出発ゲートを表示したのはその30分後だったと記憶している。我々は混雑する出発ロビーを掻き分けて出発ゲートに着いたのは17時頃だったが、これで日本に帰れると安堵した事は鮮明に記憶している。
<日本大使館員登場/出発フライトボードに-TOKYO:G2-のサインが>
日本大使館員登場/出発フライトボードに-TOKYO:G2-のサインが

6.無事帰国
エジプト航空MS964便は31日16時30分成田空港にランディング、ランディングの瞬間、機内は拍手が沸き起こった。この便はエジプト革命後の最初の帰国便となり、その後乗客は、ボーディングブリッジを過ぎたところで多くの方報道陣のフラッシュを浴びるとなり、これも得難い経験であった。SMEとは、想定外の危機的状況に陥った時、情報収集と的確な判断力で、目標達成に向けメンバーを適切に誘導する存在であること。この時のM氏の目標は、“ツアー参加者全員を出来るだけ早く、無事に日本に帰国させること”であったと考えるが、それを見事に実現させたM氏こそSMEであると実感した。これも得難い経験であった。

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