グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第74回)
時は移ろい、舞台も廻り

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :12月号

 先月号の記事寄稿は、滞在中であった米国ニューオリンズ市ホテルのインターネット環境が悪く、送ったはずの原稿メールが送信トレイに引っかかっており、休稿となってしまった。7月から毎月第4週は海外に居るので、月末ぎりぎりに原稿を書いて編集長に送る、というやり方の私にはかなりきつくなった。
 人のせいにするのはよくないが、海外ホテルのインターネット環境は、日本に慣れていると種々問題があるので要注意である。最近は接続無料が当たり前になったが、ホテルのインターネット・トラフィック量はかなり抑えられているので、アクセスがしにくかったり、重い添付ファイルがあるメールを送信するのに苦労することが多い。大手ホテルでは、無料の低速接続とインターネットサーフィン中毒者用の有料高速接続と両方用意している。
 それは置いておいて、仕事で海外に行く場合には持参するインターネット環境は念のため2種類(PC+スマホあるいはタブレット)持って歩くことをお勧めする。荷物制限に心掛ける私でも、種々の苦い経験から3種類持ち歩いているが、使用区分は、書き物と講演・講義用にPC、予習用と情報管理用にタブレット、移動中のメール受信と現地情報収集用にはさっと使える通信機能無しの(元)スマホである。
 10月はクロアチアのリゾート地であるドブロブニク市で迎えた。IPMA-国際PM協会連盟の世界大会が、最近EUに加盟したクロアチアで開催されたので、大会の国際組織委員を務めており、また学術論文発表のために参加したこの世界大会は、PMIの世界大会と異なり、伝統的にヨーロッパを中心としたIPMA加盟国の研究者の学会とプロフェッシルの大会の両方を兼ねており、産業人であり、ヨーロッパの研究者にもなった私には優先度が高い大会である。
 PM関係者の経歴別階層がきちんと残っているIPMA大会は、私と同じ年代の歴代の各国長老も参加するし、最近は、EU諸国の若手の参加が急増し、また、アフリカや中央アジアの協会からも参加者が増えている、発表テーマも多岐にわたり、実にバランスが取れた大会となっている。
 研究論文ではでは、PMAJ会員で日揮の佐藤知一氏(博士)がリスク理論を使ったプロジェクト投資判断の最適化につき発表を行い、議長と多くの研究者から称賛された。
 大会最終日の10月2日の夜、参加者はドブロブニクの有名な城壁都市のレストランを借り切って開催されたフォアウェル・パーティーを楽しんでいたが、突然ロベルト・モーリIPMA会長から、「日本時間では今もう10月3日です、そして我らが田中弘さんは70歳の誕生日を迎えられました。あと10年はIPMA世界大会に来てくれるそうです」と紹介があり、皆さんから大変暖かい祝福をいただいた。どうも私の個人情報を握っているウクライナから参加の仲間がばらしたらしい。IPMA活動が30年になる私には素晴らしいお祝いとなった。特にロシアの参加者は、ロシアでは平均寿命が男性59歳というなかで、70歳で元気で旗を振っているというのはそれ自体が快挙であるということで、世界透明度が高いバイカル湖の深層水で作ったウォッカをもらった。


 IPMA世界大会とPMI北米世界大会は、同じ10月に開催される。両者共にグローバルPM協会ではあるが文化が180度異なり、ライバルでもある。私のように二股をかけているプレイヤーには、どちらの大会を選ぶのか旗色鮮明にせよ、と言われているような気がする。しかし、そこはパルチザンといわれる私のことであるので、今年は両方参加する、ということにした。
 (一財)エンジニアリング協会の、PMIとの協力協定に基づく、PMI代表を四半世紀務めてきたが、今年、元PMAJ副理事長の三浦 進氏に跡を継いでいただくことになり、三浦さんをPMI幹部と歴代の会長など私の人脈に紹介をすることを兼ねて、10月末にニューオリンズで開催のPMI北米世界大会に参加した。
 数十年間毎年最低1回は訪れていた米国で、そもそも私が世界を駆け巡るきっかけとなった“グローバルPMフォーラム”を発起人として設立した1995年のPMI大会開催地ニューオリンズ再訪ということでわくわくして出かけたが、昔の記憶からすると何か初めての都市に来たような気がした。2005年のカタリーナ台風の大洪水被害で街は変わってしまったのであろう。
 大会では、一昔前に、世界のPM大会を年に4回くらい一緒に廻って歩いたPMI President & CEO, Mark Langley氏(写真)、それ以前から親しいPMI Director of Global Alliances and Networking, Stephen Townsend氏などとの再会を楽しんだ。エンジニアリング協会は1979年にPMIと協力協定を結んでおり、PMIの最古のパートナー協会であり、私は全てのPMI協力協定活動を知る唯一の存在となっているので、PMIから今後の協力も依頼された。ご縁は続く。
 ちなみにIPMAの会長、副会長など派遣団が8年ぶりにPMI大会を表敬参加していたのが印象的であった。PMI大会は今回の前に参加した2010年ワシントンDC大会からかなり様変わりで、ITのPM関係者の参加が驚くほど減っていたこと、大会の主流トピックは「アジャイルマネジメント」や「ベネフィットマネジメント」に移っており、またラテンアメリカの参加者が大幅に増えていること、ナイジェリアを筆頭にアフリカのPMI会員が目立ってきたこと、などがトレンドである。


 そしてこの原稿を書いている11月最終週はウクライナで巡業中である。当初この旅はモスクワでの社会人研修と所属大学での初講義に充てる予定であったが、ウクライナから、それなら、ウクライナにも来てほしいと要請があり、こちらに先に来た。
 月曜日のほぼ深夜にフランクフルト経由キエフに到着し、火曜日は所属のキエフ国立建設・建築大学(ウクライナの公式大学ランキングで6位/200校)で、文部科学省事務次官から着任したペトロ・クリコフ新学長表敬訪問、何名かの副学長や学部長との情報交流を行って、そのあとは定番の夜行寝台列車(本場のブルートレイン)で黒海沿岸のオデッサ市にあるオデッサ国立海洋大学(大学ランキングで9位/200校)に向かった。
 初めてウクライナで夜行寝台列車を利用した頃はほとんど眠れなかったが、かれこれ20回くらい経験した今はよく眠れるようになり、体力を回復する貴重な場となっている。
 オデッサ海洋大学とは、2008年7月ウクライナで最初の私のマスタークラスを、黒海沿岸の大学の学長など30名の大学首脳を集めて行ったイベントから始まり、今年2月に2日間マスタークラスを行った後の月次大学カウンシル(学科長以上の会議)の決議でProfessor of Honor学位をいだたくことが決定していたが、今回のウクライナ訪問に合わせて学位授与式を開催して戴いた。私にとりウクライナ国で3件目のProfessor of Honor授与であったが、前2回は学長、学部長から学位授与されたものの、夏場であり略式であったが、今回は大学カウンシルの場で100名の上席教授の前でガウンを纏って学位記を戴くという初めての経験で、感激一入であった。
 オデッサは私の出身企業本社があり、今も大学の横浜キャンパスで月に一度はファカルティー活動を行っている横浜市と、1965年以来の姉妹都市である。横浜は私の本拠地であると世界に公言しているので、強いご縁であると感銘している。
 恒例で、それに先だち関係研究科生とファカルティーの前で1時間の記念講義を行った。通常はロシア語かウクライナ語の通訳を入れるが、オデッサは国際港湾都市・観光都市であり、ユダヤ系学生がかなり多く、学生は英語慣れしているので、かなりジョークを入れながら英語のみで快適に講義を行い、大いに受けた。
 Professor of Honorは日本他で、当該大学の教授が退官後何年か務める名誉教授(称号)と性格が若干異なり、ウクライナの国立大学では、国の制度により、プロフェッサー任命には、候補者がウクライナの大学での所定年数の教員歴を有し、ウクライナ国の上級博士号(Doctor of Science)を有している必要があるという制約があるなかで、それを超えて外国人のプロフェッサーを起用する際に授与する学位で、一校あたり歴代5名以内とされている。私については3大学で、第1号、第1号、第3号とのこと。非常勤教員歴が高々10年の私がなぜこのようにウクライナ、あるいはロシアでも起用されるかについては、別の機会に説明したい。


 夜行列車でキエフに帰ってきてその足で、キエフ国立建設建築大学で、これまた初めての経験であるウクライナでの博士課程生2名の最終論文審査会(PhD Defense Session)に外国人客員審査員として参加した。ボローニャ協定(ヨーロッパの大学の教育プロセスの均質化を目的とした域内協定)加盟国として、旧ソ連の制度を踏襲した現システムの段階的な近代化を狙いに、今回から外国人教授5名が客員審査員として任命され、その筆頭である私がモルモット役をやることになったものだ。
 このような審査員はフランスの大学院で6年くらい経験があるが、ウクライナの方式は西ヨーロッパの方式とはかかなり異なっており、ソビエト方式と称されている。旧ソビエト連邦の“ソビエト“とは科学的審議会(Scientific Forum)の意味で、博士論文の最終審査に至るプロセスと最終審査会のあり方が国家統制されており、各大学の恣意的な基準作りや運営が許されないことになっている。審査員は、同じ専攻と周辺専攻から合計20名程度が、全国の国立立大学の教授のなかから召集されて、論文審査を行い。うち2名がオポーネントつまりヨーロッパで言うところのExaminerとなり、フル論文の精査を行い、冷静に、多分に挑発的な意見を最終審議会で述べる。しかし、オポーネンとも人の子であるのでよく出来た論文については、反論のはずが、ヨイショに変わることもある。
 しかし、最終論文審査会に進めた博士課程生は、審査員の記名合否投票を経て、よほどのことがない限り合格となる。ロシア語とウクライナ語のみの審議で、私には臨時通訳がついたが、プロではないので、審議内容はよく伝わらないが、客員といっても並びではない審査員として論文の予見なしで質問や意見陳述を行う必要があることは確かである。
 面白いのは、博士候補生は必ず配偶者や長男・長女を伴って来ることで、人生の大きな岐路でのここ一番の大勝負をメンタル面で家族が支える、あるいは晴れの場に家族も立ち会うということだ。また、審査会の開始前、入れ替えの休憩時には別室で審査員への主催大学の接待があり、コニャック、ウイスキーと豪華なカナッペが供される。候補生がめでたく審査合格となると大学のファカルティレストランは宴席の場となり、海外のアカデミックディナーの伝統に従い、合格した博士課程生が費用を負担して祝宴を開く。


 首都キエフの中心部は、ウクライナのEUとの協力協定早期締結を要求する市民数千人のデモが連日続いている。経済状況がきわめて厳しいウクライナの将来をEU加盟により打開すべしという民主派国民の声と、現在のEUの体力からウクライナに救いの手を差し伸べる財政的な余裕がない、ロシア市場を失うリスクの方が明らかに数倍大きい、EUに騙されてはいけない、とする保守派勢力との綱引きの行方は分からない。

 明日は夜行列車で950キロ北のモスクワに移動して、彼の地で一週間の活動を行う。キエフの気温は日中+1から+5℃であるが、モスクワの明日は-5℃とのこと。  ♥♥♥♥♥

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