理事長コーナー
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電話と日本人とフロンティア

PMAJ理事長 光藤 昭男 [プロフィール] :5月号

 休日の自宅にベル音が鳴り渡った。一瞬、何の音か戸惑った。そして戸惑ったことに驚き固定電話の受話器を取った。いかに固定電話を利用していなかった証左である。所帯を持った時に電話番号を入れた転居のはがきを出し、何か一人前になった、僅かだが誇らしげに思ったことを懐かしく思い出す。しかし、今はファックス機能付きの電話機を利用しているが、ファックスもついぞ利用したことがない。勿論、インターネットに置換わっているからだ。固定電話を所有せずに携帯電話かスマホしか持たない人が増えていると聞くが、合理的な考えだと納得する。NTTに勤める知人が、かなり以前に電話利用の落ち込みが急でその部門の先行きが不透明だと云っていたことを思い出す。

 正確な名前は忘れたが子供の頃繰り返し読んだ本が、確か「発明王エジソン」だと思う。その本に電話の実験に成功した記述もあったので、電話の発明者はトーマス・エジソンだと思い込んでいた。しかし、「電話の発明者はグラハム・ベルだ」と何人にも正された。一旦インプットされた記憶の修正は難しい。この様な理由から、インターネットをはじめ通信技術の契機となった電話機の発明と当時の日本の状況を調べてみた。幾つかの発見をした。

 アレクサンダー・グラハム・ベルは、アメリカ合衆国において実用的な電話の基本特許を取得したために、電話の発明者と云われている。その特許は、1876年3月3日の29歳の誕生日に許可され、4日後に特許として告示されている。彼は、英国スコットランドのエジンバラに生まれ、20歳の頃にカナダに移住し、成功してから米国で永住権を得た。幼いころから感受性が高く、母から芸術、音楽を教え込まれ正式な訓練を受けずピアニストになった。その母の聴覚障害が徐々に進行したことにも深く影響を受け、音響学を学び始めることになった。母は聾となったが、妻もまた聾であったそうである。このことがベルのライフワークに深く影響し、聴覚とスピーチに関する研究を深める目的で聴覚機器の実験を行い、ついには電話の発明として結実した。研究は電話以外の多分野に及び、光無線通信、水中翼船、航空機、優生学など、数々の発明をして世界産業史上重要な業績を残した。興味深いことに、折角発明した電話機を自分の事務所にはおかなかった。彼はもっと他に重要な仕事があると考えたそうである。偉人は常に大きい。

 日本との関係も興味深い。ベルが電話の実験を成功させた直後の同じ1876年に、当時訪米し、ボストンに滞在していた伊沢修二と金子堅太郎が、ベルの電話を使い日本語で会話をしている。電話を使って話された言語が、英語の次に日本語であったと記録されている。当時の日本人は今にも増して欧米の新しい物を何でも吸収しようとしていた。その必死なまでの探求意欲の高さに驚かされる。二人とも科学者でも技術者でもない。後に、伊沢修二は東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)の初代校長、金子堅太郎は司法大臣となった。金子は、日露戦争の終結がかかった1905年8月のポーツマス会議の交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相小村壽太郎より全権委任を受け、ハーバード大学ロースクール同窓生であったルーズベルト大統領に援助を求め、講和の成立に貢献した。この翌1877年に、電話機は日本へ向け輸出されている。明治維新から10年経過していた。一方、ベルはベル電話会社を創設した。独禁法で解体されるまで米国産業界の雄となったのちのATT( American Telephone & Telegraph Company)である。

 1870年代には、電信電報が普及し始めており、米国ではウエスタンユニオン社(WU)が急成長していた。そのWU社の依頼で、ベルとほぼ同じ時期にトーマス・アルバ・エジソンも電話機を開発していた。1877年に、ベルと異なる技術で電話機を発明し特許を取得した。1879年に、その特許は保有するWU社からベル電話会社に売却されている。長距離電話ではエジソンの技術が優れており、その後の広大な米国内での普及に貢献したのだから、「エジソンはベルが電話機の発明者とされるのは最後まで納得がいかなかった」ことが分かる。従い、「発明王エジソン」では、電話の発明者とされていたことも、間違いとは言えないのかもしれない。

 さて、電話機発明に先立つ40年程前の1837年には、米国人サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールスが、電信実験を行い、1840年にモールス符号と電信機の特許を取得している。電信とそれに続く電報に関しては、1830年代半ばから欧州でも複数の発明があり、1840年代には急速に実用化されていった。ちなみに、1853年に4艇の“黒船”艦隊で来航した米国マシュー・カルブレース・ペリーは、江戸幕府に開国を迫まった。翌年、2度目の来日の際には、艦隊を9艇に増強しその軍事力を誇示した。軍事力だけでなく、民営の電信電報技術も日本へ持込み最新鋭技術を見せつけ、日米の国力の差を示した。ペリーは、1km程の電線を引き公開実験をおこない、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。人々は驚いたという。その後、電信による公衆電報が東京・横浜間で1869年から開始されている。余談だが、ペルーは、日米和親条約を締結後、帰国して1858年に64歳で亡くなっている。また、米国南北戦争は1861年に勃発し、1865年に終結する。平和となり余剰となった銃砲の多くが日本に輸出された。明治維新を決定付けたという。

 19世紀の後半のこの頃でも、欧米各国では多くの科学者が電話技術の研究開発に従事していため、簡単には特許取得は出来ず、多くの技術が複雑に絡み合う係争があった。当時から欧米ではイノベーションを求めて貪欲な開発競争が繰り広げられていたことが、特許関連の訴訟事件の多さからも分かる。ベルの発明と特許取得には、偶然が利するいわゆるセレンディプィティ(serendipity)の存在が指摘されている。更に、今で云うベンチャーの研究開発に当たるベルの活動に対し、周囲の科学者たちの助言や人的支援、富裕層による資金提供も積極的になされていた。当時の米国でも、社会の仕組みの一つとしてベンチャー育成が出来ていたのだろう。

 新発明による起業家が生む活力、産業フロンティアの波は、1730年代に英国で発生し、1765年のワットの蒸気機関で加速したが、やがて成熟期を迎える。産業フロンティアの波は、米国東海岸から五大湖周辺に移り、ベル(ATT)とエジソン(GE)で花開き、フォード(Ford Motors)の発明で加速し(T型フォード発売1908年)、やがて第二次大戦後成熟期を迎えた。そして21世紀に入り、現在は、産業フロンティアの波は米国西海岸で花開き隆盛を誇っている。産業の成熟は秩序ある社会を好み、社会が固定化し伝統が重んじられる。そのような“伝統ある世界“では、新たな若者の試みの多くは潰れてしまう。自分でルールを創ることが必要なのだ。世界規模を誇る伝統的なATT、GE、Ford、GM、IBMなどの既存超大企業の枠の外に出て、Microsoft、Apple、Google、Amazon、Facebookと世界トップの企業価値を争う企業は生まれ成長して来た。いわゆる、現在の産業フロンティアであるサンノゼ、シアトルに本拠地を位置する企業である。

 歴史の“もし“は禁句だというが、もし、ベルがカナダに移住していなかったら電話機を発明していただろうか。また、ATTは誕生しただろうか。恐らく両方とも、Noであり、ベルは発明せず、他の誰かが発明し、他の誰かが起業したであろう。今隆盛を誇る米国の産業フロンティアの波は、西海岸に位置するが、陸地はそこで行き止りだ。米国西部開拓史によると、次のフロンティアは、北西に位置するアラスカだとの記載がある。産業フロンティアの波の中でしか革新的な企業が生まれないのだとしたら、次にその波はどこに行くのであろうか。また、誰が全く新たな試みを企て、フロンティアを創り上げ産業史に名を残すであろうか。興味が尽きない。

以 上

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