理事長コーナー
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“英語力”について

PMAJ理事長 光藤 昭男 [プロフィール] :4月号

 観測装置カミオカンデを利用してニュートリノの実在を証明したことでノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士は、ユーモアあふれる英語の使い手であることでも知られている。20歳台後半に初めて米国に渡って以来、幾度も米国に滞在されたが、何年たっても“L”と“R”の区別がつかなかったそうだ。先生はこの様な発音の問題だけに限らず、米国人と間違えるような流暢な英語を使うには、遅くとも小学生になる前に身に着けておかないと無理だとおっしゃっている。しかし、相手にとって価値ある情報を発信することに注力すれば、いくら判りにくい英語でも相手は真剣に耳を傾けてくれるものだ、とも述べられている。

 異文化コミュニケーションにおいて、日本人は自分の長所や優れたポイントをそのことを知らない相手に上手に知らしめることが不得意だと指摘されて久しい。江戸時代には長く鎖国し外国との接触が限られていたため、他者との違いに自ら気付く体験が少なかった。あるいは、農耕社会で育まれた高い同質性の中で、異質で目立つよりも埋没することを好んできた。さらには、人前で恥をかくことを大変嫌う「恥の文化」や、「沈黙は金」という格言もある。

 日本人学生に特徴的な話題もある。中国人や韓国人などの海外からの留学生は、良く質問するし、良く発言もする。日本人は黙っている学生が多い。一方、課題を与えレポートを書かせるとむしろ日本人の学生の方がきちんと理解していることが判るそうだ。ある西洋人教師が同様の印象を述べた新聞記事もある。自分の若い頃の経験では、確かに日本人の前で英語を話すことは照れくさかったが、自分以外に日本人が居ないと照れは薄まる。また、ある程度英語で話すことに慣れてくると、間違えを気にせずに話すことができた。相手が理解していないと感じれば、表現を変えて通じるまで何度も言う余裕も出てくるようになった。文化の問題もあるが、頻度と慣れで解決できる問題と思われる。

 “効果的に発信する”場合に重要なことは二つありそうだ。内容の価値とそれを表現する能力である。前者は、その内容そのものの価値を自分で正確に認識しているか、さらに、それを表現するのに相応しく内容を頭の中で構造化して整理していることが重要である。後者は、正確に認識し整理していたとしても、それに相応しい表現を駆使することが出来るか否かである。いずれも、英語による発信の問題だけでなく、日本語で発信する際にも同じことが言える。

 榊原英資氏の「日本人はなぜ国際人になれないのか」(東洋経済新報社)によれば、英文和訳、英作文という名の通り、日本では英和・和英の“翻訳”を日本の英語教育の中心に据えてきた。“翻訳”とは、日本語を英語に、英語を日本語にどう置換えるということだ。しかし、単なる置換えでは英語のコンテンツを正確に表現出来ない。この様な“翻訳”をしている限り、英語でのコミュニケーション能力は向上しない。しかも、悪いことには、日本では古代から“翻訳”してきた。文明大国の中国から大量の情報を輸入した際に、漢字は採用したが中国語は採用しなかった。その結果、当時から多くの言葉を翻訳してきたことが“日本の伝統”であり、簡単には抜き難い習慣となっている。日本の英語教育は翻訳教育であるが、それを英語はそのまま英語で教える方法に転換すべきである。現に、日本以外の国では英語に限らず外国語は、その外国語で教える方法をとっている。(以上、筆者要約)

 この様に英語を用いて通じ合うという人の行為は色々な要素からなっており、これさえ実行すれば向上するぞと単純にはいかない。だが現実には、確実に英語力が向上している中国人や韓国人の実情が多く報道される中で、日本人の上達が危ぶまれている。このような複合課題の解決は、P2Mの方法論を用いればすぐ解決する!と短絡したくなるが、結論は違う。王道を行く、すなわち、基礎(読む、聞く、話す、書く)を固め、現場に数多く浸ることであると思う。

以 上

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