グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第67回)
長距離旅行の原点-1960年代南米南部一周の旅

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :4月号

  本稿は今年1月に書き上げ、オンラインジャーナルの2月号に掲載予定で原稿を提出しましたが、その直後にアルジェリア国で筆者の元勤務先企業に悲痛な事件が起こり、OBとして哀悼の意を表して掲載を延期しました(著者)。

 先月号ではウクライナ紀行を寄せたが、70歳近くになっていまだに片道20時間以上の旅を年に何度もしている。瞬発力は問題であるが、持続力はあるほうであろう。
 長旅は、学生海外放浪第一世代の一員として20歳代入り口から経験しており、それが現在の“ヒロ・パルチザン”の原点となっている。

 古いパスポートによると、私は1965年5月18日に福岡県 新日本製鐵八幡製鉄所構内の戸畑港から日本を出国し、日邦汽船(当時)の最新鋭鉄鉱石運搬船 那雲丸で24日の航海の後、6月12日チリ中部のコキンボ港で同国入国した。飛行機での旅と異なり北米での中継がないので初めての外国が、いきなり日本の裏側のチリという極めて特異な経験である。
 コキンボから陸路バスを乗り継いで北上し、7月2日に日産自動車工場があるアリカ市からチリ出国、同日、当時三井物産が総合開発をしていたタクナ市でペルー入国、北上を続けて同月12日に首都リマに到着した。走行距離は約2,500kmで、当時は長距離バスを4回乗り換え途中3都市で土地の人にお世話になりながら22日かけたのんびり旅であった。現在は、このルートを長距離バスで辿ると、直行48時間で行けるようだ。

南米に運んでくれた日邦汽船 邦雲丸3.3万トン 1965年チリ コキンボ市(現人口12万人)
南米に運んでくれた日邦汽船 邦雲丸3.3万トン 1965年チリ コキンボ市(現人口12万人)

 リマには翌1966年3月8日まで滞在し、リマからアルゼンチンのブエノスアイレスまで南米大陸を斜めに陸路横断した後再びアルゼンチンからチリ―へと南米大陸を横断して、帰路も鉄石運搬船でチリから中部太平洋を横切り名古屋港(新日本製鉄名古屋製鉄所)に1666年5月7日に帰国した。

コキンボ下町のセニョリータ パンアメリカンハイウェイ・バス(ベンツである!)
コキンボ下町のセニョリータ パンアメリカンハイウェイ・バス(ベンツである!)

 前半のコキンボ~リマ間のパンアメリカン・ハイウェイを北上する旅も楽しかったが、後半の南米横断は得難い体験満載で実にエキサイティングであった。
 リマからミステリアス地上絵で有名なナスカまではパンアメリカン・ハイウェイを南下し、そこからアンデス山域に入り、高度を徐々に上げながら海抜3千mレベルに達し、九十九折れのアンデス尾根道をたどるとかつてのインカ帝国の首都クスコ市である。ここまで約700kmでちょうど2昼夜48時間かかった。クスコと近辺のマチュピチュ遺跡は当時から世界的な観光地であったが、ツーリストは空路を使うのでこのような長距離バスの乗客はインディオと呼ばれるアンデスの民と外国人青年のバックパッカーのみであった。当時は年長者のバックパッカーはおらず、若者のみの特権であった。

アンデス山中のクスコエクスプレス・バス 休憩で停車するとミニ商店あり
アンデス山中のクスコエクスプレス・バス 休憩で停車するとミニ商店あり

 この行程では、わが人生でも稀なる経験をいくつかしたが、その一つは地面に直接置いて売っている茹で肉、多分お役御免となったアンデス特有の動物リャマの肉であろう、を食べたことである。売り手いわく、凍ったまま保存しているので茹でたて同然だと。若者の胃袋を満たす他の適当な食べ物がないので、そうかと思って食べていた。あとはクエという小型モルモットの唐揚もあった。これは慣れると結構うまかった。

現在のクスコ市(海抜3,600m人口32万人)  Wikipediaクスコ市から引用
現在のクスコ市(海抜3,600m人口32万人)  Wikipediaクスコ市から引用

 リマからは、大学のラテンアメリカ研究会の仲間であり、同じく中南米フィールド調査をメキシコでしていたY君(故人)が加わった。Y君は金持ちであり、私もリマでの若干のアルバイトで少し潤ったのでクスコ観光だけはめずらしく一般ツーリストと同じように奮発した。清潔な観光ホテルに泊まり(私の平均宿泊単価は1.5ドル程度であったが、このホテルは20ドル程度したと記憶している)、早朝にクスコを出て観光列車でマチュピチュ遺跡日帰り観光を楽しんだ。今でこそ日本人もかなりマチュピチュに行くようになったが、当時は日本人には会わなかった。その頃南米はアメリカの裏庭であり、それより昔は圧倒的に英国のプレゼンスが高かった。
 私の三女によると現在マチュピチュはパワースポットとして世界中で大変な人気らしい。ヨーロッパの旅行雑誌でもマチュピチュの記事があちこちに載っている。

今日の幻想的なマチュピチュ遺跡 ユネスコのHPから引用 (C) Silvan Rehfeld
今日の幻想的なマチュピチュ遺跡 ユネスコのHPから引用 © Silvan Rehfeld

 クスコからは、リマに帰るY君と別れて、ペルー南部鉄道の一等コーチでチチカカ湖畔の町プーノまで330キロを走破した。英国が建設した立派な鉄道で、フルコースのランチまで付いた快適な旅であった。アンデスの珍獣リャーマやアルパカが群れをなす、なだらかなアルティプラーノ(海抜3,500m程度に広がる高原台地)をゆったりと走る。旅のハイライトはアグァス・カリエンテスの手前で海抜4,321メートルの峠を越えることであった。齢21にして、何ともたおやかな世界の秘境に接することができた。47年後の今、この路線はペルー国鉄のドル箱で、素晴らしいパノラマカーが走っているとのこと。

海抜4,321mの峠(ペルー国鉄2番目の高地) 2等旅客用レストラン
海抜4,321mの峠(ペルー国鉄2番目の高地) 2等旅客用レストラン

ペルーとボリビア国境にあるチチカカ湖 ペルーからボリビアへの国境
ペルーとボリビア国境にあるチチカカ湖 ペルーからボリビアへの国境

 プーノは海抜3,800mに位置する町で、汽船などが航行可能な湖として世界最高所にあるチチカカ湖(琵琶湖の12倍:ペルー領60%、ボリビア領40%)に面した最大の町で、ペルーからボリビアへの陸路の要所である。
 プーノでは2日滞在し、ボリビアのビザを取得し、すぐにボリビアの首都行きのバスに乗った。所要12時間。3月13日にボリビア入国。この間の記憶で残っているのは途中までカラフルな重ね着の一張羅を着たインディオの乗客が多かったことで、コチャバンバというボリビアの町にあるインディオにとってのカトリック聖地カテドラル詣でに行くとのこと。
 ボリビアの首都ラ・パスはすり鉢の底にあり、夜になって海抜3,900mのすり鉢の上からこれから降りていく底、3,000mのラ・パスの夜景を見下ろした時の美しさも、もう一つ残っている記憶である。
 リマからラ・パスまでは、高山病を避けるため高度順応をしながらののんびり旅であったが、ここからアルゼンチンのブエノスアイレスまでの旅2,200kmは列車で一気に下ることにした。当時インターネットは勿論ないし、また、書物による関連旅情報も英国発行のガイドブックにとぎれとぎれに載っている程度であった。そこでラ・パス中央駅に情報収集に出かけたら、米国人の平和部隊の青年2名と会った。彼らは、コロンビアでの任務を終えて南米を南下し、ブエノスから飛行機でボストンに帰るという。これ幸いと彼らと行動を共にすることにした。

山腹にへばりついたラ・パスの町 旅の友となった米国平和部隊隊員
山腹にへばりついたラ・パスの町 旅の友となった米国平和部隊隊員

 ブエノスアイレスまでは、正確な記録が残ってないが、国境のホテルで仮泊したのを除いては列車に乗りっぱなしで、4泊5日かかったと記憶している。ラ・パスから世界的な銀鉱山・錫鉱山でかつて栄えたオルーロ市を通り、今や世界的な観光スポットとなっているウユーニの塩湖沿いを何時間も走り、3月17日国境のベジャソンからアルゼンチンに入る。
 塩湖というのは実に幻想的であり、一見深そうに見える塩湖の上を車が走っているのを車窓から見て狐につままれた思いがした。

ウユニの塩湖 (Salar) 月の名所ツクマン(アルゼンチン)
ウユニの塩湖 (Salar) 月の名所ツクマン(アルゼンチン)

 アルゼンチンに入るとハプニングが起きた。国境からサルタ市までは超ローカル列車で乗客はインディオの人たちが主であったが、七輪を持ち込んで昼食を作り売っている一家がいた。これは珍らしい風景であると、早速座席の上に立って写真を撮りだしたのがいけなかった。5分ほどすると警官がやってきて、パスポートなどで当方身元確認の上、フィルム没収となった。乗客の通報により駆けつけたイタリア系の警官は、国恥的な写真を撮るとは何事かと怒鳴っていた。今度やったら国外追放であるとも威喝された。イタリア系国民が多数派であるアルゼンチンではスペイン語のイントネーションがイタリア語そっくりであることを改めて思い知ったひと時でもあった。
 この事件でラ・パスからブエノスアイレスまでの貴重な記録を失ってしまった。このようなことがあっても旅は続き、サルタからアルゼンチンの代表的なフォルクローレ「ツクマンの月」と、1970年代中盤にフジテレビ系で放映された世界名作劇場「母をたずねて三千里」でイタリアのジェノバからアルゼンチンに出稼ぎに行って行方不明の母を探しに出たマルコが最後に辿りついたツクマン市、そしてコルドバ市、ロサリオ市(サッカーのスーパースター メッシの故郷である)を経てブエノスアイレス-ロカ駅に着いた。
 現在はボリビア国内のこの国鉄路線は廃止されているので、ボリビアからブエノスへの庶民の移動手段は長距離バスになっているとのこと。

 ブエノスアイレスは、アンデス山中を放浪してきた目には、これが南米かと思うようなヨーロッパそのものの素敵な首都であった。数日の間、町の散策とカフェでタンゴを楽しんでから・・・その頃、その1年後勤務することになる企業が近くのラ・プラタ市で製油所を受注する商談が行われていることなど知る由もなかった・・・、今度はスペイン語でパンパと称する大平原を西に向けてひたすらバスで走ってアンデス山麓のワイン産地メンドーサに向かった。日本には赤玉ポートワインしか出回っていない頃、初めての外国であるチリで本物の赤ワインを知り、旅の終わり近くになってまた素晴らしいワインを安価で味わうことができたのは至福であった。ちなみに長く滞在したペルーの地酒はピスコサワーで有名な焼酎ピスコであり、ペルーワインは無い。
 南米一周はすべて陸路で、をポリシーとしていたが、困ったことに、メンドーサからチリのサンチャゴへの陸路は大雨でダメージが大きくいつ通行可能となるか分からないとのこと。帰りの船のスケジュールもあるので、アンデス越えは、生まれて初めてのフライトとなったアルゼンチン航空を利用した。3月23日チリ入国。

アルゼンチン航空サンチャゴ行き チリ国鉄北部線
アルゼンチン航空サンチャゴ行き チリ国鉄北部線

 チリの首都サンチャゴはそれなりにシックな町ではあるが、その前にブエノスアイレスの威容に接しているので、長居は無用と国鉄北部線で懐かしのコキンボに移動した。
 ここで前回滞在時に親しくなった人たちと数日の再会を楽しみ、1年前と同じ長距離バスで鉄鋼石積み出し港の町チャニャラルに移動し、邦明丸の客となった。出国日1966年4月2日。

 プロジェクトマネジメントという言葉すら知らない頃の旅であったが、今振り返ると、やっていたことは実にPMそのものであったと思う。つまり、
海外渡航が自由化されて間もなくであり、学生の身で渡航を実現するためには趣旨書というプロジェクトプランを作り、種々の支援をしてくれる方々の賛同を得る必要があった。
持ち出し外貨が限られており、持参金額500ドルで1年間の滞在をするというチャレンジを実現するプランを準備する必要があった。
飛行機の旅と異なり長距離を陸路で移動となるとプロジェクトのマスタースケジュールは持ちつつも、ディテールは現地に行かないと分らないで、ローリングウェーブで計画する必要があった。
陸路の長旅にはやはりリスクがある。種々なリスクを想定しながら、代案を用意し、情報収集をしながら、リスクを最小にして前進を重ねた。
当時珍しい学生の旅であるので、土地の人、日本人の方々のできるだけの支援を得られるように緻密なコミュニケーションに務めた(当時のスペイン語力は英語力を上回っていた)。
成果として
渡航の研究目的であった、ペルー国における日系人の実態調査を、日系人新聞「ペルー新報」をスポンサーとして了えることができ、日系人のためのディレクトリーができた。
法学部所属のラテンアメリカ研究会会員として、アメリカ大陸最古のペルー国立サンマルコス大学(1551年創立)の夏期講座「比較法学」(スペイン語)を修了した。
南米南部4ヶ国の実態につきフィールド踏査ができた。また、旅の移動部の所感をペルー新報社のブログとして通算3か月毎日連載した(残念ながら私の手元にはブログが残ってない)。
スケジュール、予算、リスク回避も予定通り収まった。
この経験が就職に大変役にたった。

 社会人になってからの出張の旅は数が多く、特に米国についてはどこにいつ行ったかもろくに覚えていない状態であるなかで、この世界への原点旅行のことだけはかなり鮮明に記憶に残っている。
 南米フリークであった私にとって社会人になってから南米は全く遠くなり、世界の中で唯一仕事で訪れることがない地域となっているが、チリには是非もう一度行ってコキンボを訪ねたいと思っている。
 次回はモスクワから”PM Innovation Week in Russia” の模様を報告する  ♥♥♥♥♥

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