関西P2M研究会コーナー
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③ 徒然なるままに、グローバルPMは『韓非子』に学ぼう!

坂口 幸雄 [プロフィール] 
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1. 「昔の理想の中国」と「現在の現実の中国」の乖離
昔の話になるが、団塊の世代である私は高校の漢文で“子曰、六十而耳順”など「孔子の論語」を習った。その影響なのか今でも5000年の悠久の歴史を持つ儒教国家の中国に対して“畏敬と憧憬の念”を持っている。中国でも台湾でも至る所に孔子廟が建てられており無数の中国人の善男善女が参詣している。

ところが、日本人の考えている論語に出てくる昔の「あるべき姿の理想の中国」と現在の「ありのままの姿の現実の中国」とは大きくかけ離れている。日本のビジネスは伝統的に「性善説」で運営されており、信用や安全は当たり前である。それはそれで大変いいのだが、弱肉強食のグローバルビジネスにおいては“お人好し”の日本人は交渉に甘さが出てしまい、その弱点に付け込まれる。

日本では「自動販売機やコンビニのATM」が全国津々浦々至る所に無防備に設置されている。しかし中国には「自動販売機」の盗難などの被害を恐れてどこにも設置されていない。中国に「自動販売機」を設置しても誰かが夜中にトラックで運び去るだろう。このことは「性善説の日本」と「性悪説の中国」の違いを端的に物語っている。

2. 性悪説に基づく中国の銀行での“接客サービス”



「接客サービス」について日本と中国で一番異なる点は、“銀行”での接客サービスである。日本の銀行と同じような「笑顔の接客サービス」を期待して、中国の銀行に日本円10万円を中国元に換金に行った。銀行に入ると、期待していた行員の「笑顔の接客サービス」は全く無かった。その代わりに、私の目の前には小さな穴の開いた防犯用の厚いガラス板があった。そこの狭い穴からパスポートを担当者に差し出す。すると窓の向こうにいる担当者は胡散臭そうな目で私の顔を凝視している。パスポートの写真と私の顔を見比べながら、私がさも“犯罪者”かであるような目つきで見ている。パスポートのチェックが終わると、隣の窓口に行くように促される。指示通りに私の持参した日本円の紙幣を狭い穴から差し出す。するとまず目視で1枚1枚紙幣の「透かし」を本物かどうか確認しているようだ。次に「偽札チェック機」にかけてじっくり1枚1枚チェックしていく。急いでいる私はイライラしてくる。

このようにチェックが厳しい理由は、日本では“日本銀行が発行する紙幣”には絶大な信用があるが、中国では“偽札”が大量に出回っているからだ。最近の新聞を見ていると中国の大規模な“偽札作り集団”が検挙されていた。そのために中国の銀行では「仕事の効率」よりも「コンプライアンス」が最優先となる。表面的な「笑顔のサービス」よりもコンプライアンスやセキュリティによる本質的な「信用・安全」の方が大事で、“顧客満足”に繋がると考えている。

3. 中国ビジネスの契約での注意点



「新版P2M標準ガイドブック」を読んでみても、「全ての契約や発想は、“性悪説”から出発している。」とハッキリ記述してある。性善説が基本の日本のビジネスの契約書の最後には、「万が一問題が発生した場合は、お互いに誠意を持って解決するものとする」と定型的な文章が書いてある。そしてお互いに性善説を信じて捺印する。しかしハプニングが日常茶飯事の中国ビジネスでは想定外の問題が生じる。特にプロジェクトでは「契約時期の前後」にリスクは最も多く発生する。トラブルが実際に発生した時には、「お互いに誠意をもって話合いで何とか解決しよう」と努力しても、その時は既に“後の祭り”である。その交渉の過程で双方の関係がますます険悪になっていくだけである。事前に最悪のシナリオを考慮して、全てのケースを洗い出して、手間はかかるが文書化して契約しておくべきである。

4. 中国の駐在員はダブルスタンダードで対応するのがよい
人間の本質については2つの両極端の考え方がある、性善説(孔子、儒教)と性悪説(韓非子、法家)である。性善説とは、人は本質的に「善」であると考える。一方、性悪説は、人は本質的に「悪」であると 考える。日本は性善説に基づいた社会だが、中国は性悪説に基づいた社会である。日本人は頭のスイッチを意識的に切り替えてないと性悪説で行動出来ない。しかし中国人は生まれつき、特に意識することなく自然に性悪説で行動できる。中国の日本人駐在員は、性善説と性悪説のダブルタンダードを意識して使い分ける必要がある。

5. 韓非子の法家思想(性悪説)を読もう


日本では孔子の『論語』は広く読まれている。しかしなぜか『韓非子』はあまり読まれていない。その理由としては『韓非子』の内容が日本人にはあまりに“えげつない”ので、読む気がしなくなるからだ。韓非は「人間の本性は悪である」という“事実”を正直にありのまま著している。『韓非子』では「謀反の疑いがある能力のある人間には、失脚させる、罪人にする、それでも駄目ならば、殺すべきである」とその“えげつなさ”は徹底している。

韓非は才能には恵まれていたが、残念ながらその生涯は悲劇の人であった。韓非の著作『韓非子』は、自分の祖国・韓ではその才能を評価されなかった。皮肉にも彼の才能に気付いたのは、敵国の秦王政であった。秦王政は韓非の著作を読み、その「ミッションプロファイリングとアーキテクチャマネジメント」の“戦略策定プロセス”の素晴らしさに感嘆して韓非を自国にスカウトした。ところが秦王政の宰相である李斯は、韓非が「中国統一のプログラムマネジメント」の天才であることを事前に見抜いており、自分より韓非が重用される事を危惧した。そこで李斯はライバルである韓非を排斥するために、事実無根の罪を着せ韓非を投獄した。そしてひそかに韓非を殺してしまう。後に秦王政が誤りに気付き韓非の罪を許したが、その時には韓非はすでに死んでいたという“悲劇の結末”となる。その後秦王政は『韓非子』を熟読し、やがて中国を統一して“秦の始皇帝”となった。

6. 性悪説の方が現実の中国に適している
『論語』で有名な孔子の弟子の数は3500人にものぼったと言われ、その理想とする性善説による政治を実践するため諸国を行脚した。しかし結局はいずれの国でも受け入れられず、挫折して失意の晩年を過ごしたと言われている。その弟子たちも不遇であった。 “顔回”は赤貧を貫いて死に、 “子路”も謀反の際に主君を守って惨殺されたという。性善説による「孔子の教え」が採り入れられなかったのは、やはり性悪説の方が現実の中国の政治に適していたといえる。、最近の新聞を読むと中国政府幹部のモラルも低くなっているようだ。中国の最高指導者である習近平は総書記に就任して、まず最初に強調したのは「政府幹部の汚職撲滅」だったと報じている。それほど「政府幹部のモラル低下」つまり「汚職や収賄」が蔓延しているということである。



「汚職と収賄」とは、一体全体、何であろうか?インターネットでWIKIPEDIAを検索すると、“汚職”とは、「公職にある者が、その地位や職権を利用して 収賄や個人の利益を図る不正行為を行うこと」をいう。“賄賂”は、「主権者の代理として公権力を執行する為政者や官吏が、権力執行の裁量に情実をさしはさんでもらうことを期待する他者から、法や道徳に反する形で受ける財やサービス」のこと。

中国は賄賂の国である。まじめに、中国社会の“賄賂漬け”はしっかりと生活に根付いている。中国5000年の長い伝統で習慣的に行われてきており、簡単にはなくすことはできない。賄賂がなくならない根本原因は“世の中にお金がほしくない人間はいない”という厳然とした現実がある。私の個人的な考えでは“汚職”は明らかに良くないが 、“賄賂”が良くないかどうかは微妙でその判断はむつかしい。世界各国どの国にも、その国なりの昔からの「付き合いやビジネス慣習」がある。

7. 中国人に日本人の価値観(忠臣蔵)を理解してもらうのはむつかしい



終戦まで上海にあった東亜同文書院の書物を読んでいると、“忠臣蔵を中国人に理解してもらうのは大変むつかしい”と書いてあった。その理由は、中国人の常識では「播州赤穂藩藩主の浅野内匠頭は、勅使饗応指南役である吉良上野介に作法を教えてもらうのであれば、当然そのサービスに対して対価“賄賂”を払うのは当然である」と考える。中国人は“浅野内匠頭の行動を非常識であると批判し、吉良上野介に対しては同情的である”と書いてある。浅野内匠頭の考え方に賛同する人は中国ビジネスには不向きかもしれない。

日本でも江戸時代までは、幕府の役人が「賄賂」を受けたとしても、当時の社会通念では“常識の範疇”を越えなければ問題なしとされていたらしい。即ち、必ずしも「賄賂」が直ちに非難される行為とはみなされてはいなかった。この時に“常識の範疇”と言うものをどこまで可とするか、どのように考えるかその判断はむつかしい。

一方、欧米では一律に「賄賂」をUNFAIRであるとしている。キリスト教の教義では、「賄賂を取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらます・・」と聖書に記されている。そのために明治時代以降、日本に来た欧米人が「賄賂」をUNFAIRであると問題として指摘始めた。そのために日本では賄賂への考え方がだんだん厳しくなってきたようである。感謝の気持ちの表現として日本の“お歳暮や中元”はいけないのだろうか?会議費と交際費の線引きも曖昧でむつかしい。

8. グローバル・プロジェクト・マネジャーは『韓非子』に学ぼう!



「新版P2M標準ガイドブック」では「プロジェクトの場」の認識が重要であると指摘している。「プロジェクトの場」とは、ステークホルダーが持つ特定命令を理解し集まって業務を進める「場」である。この「場」は地理・文化的領域、専門的領域、組織的領域の異なる人々が領域を超えてプロジェクトに参加し、相互交流を図りながら人間関係を構築し、情報交流を通じて形成する「モラル空間」である。プロジェクトマネジメントの成果は、「プロジェクトの場」をいかに活性化できるかによって左右される。例えば契約を守る、訴訟を避ける、身内の対立を回避して私を図る等の姿勢はプラスにもマイナスにも作用するが、「プロジェクトの場」をプロジェクトの環境に合せてデザインすることによって、「マイナスを最小に」することが出来る・・・。

日本人は中国でのプロジェクト推進には“中国特有の文化やビジネス習慣”を考慮して「プロジェクトの場」を考えることが必要である。つまり中国ビジネスにおいてはまず性悪説への頭の切り替えが大事である。グローバル・プロジェクト・マネジャーは『韓非子』に学ぼう!
以上

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