理事長コーナー
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発言する力について

PMAJ理事長 光藤 昭男 [プロフィール] :2月号

 講演が無事終わると、最後に講師への質問時間を取ることが多い。司会者が、「この貴重な機会ですから、講師へのご質問を受け付けます。ご質問はありませんでしょうか?」。一瞬、空気が凍りつくような時間が過ぎ、「ご質問がないようですので、司会の私から質問させて頂きます」と、準備して来たと思われる質問を投げかけられ、空気が元の状態になる。その後、会場から質問が続くことが多い。

 開成高校の柳沢幸雄校長が、おもしろいことを云われていた。(朝日新聞オピニオン、1月19日)学生の発言への抵抗感をなくすために、最初の授業で、ある同じテーマの問いを繰り返す。ただし、前の人と同じ回答を言ってはいけない約束で。10人目くらいで学生は音をあげる。やおら「発言は初めにする方が楽でしょ」と。日本人は一番初めに発言しない。そこが国際化の中で一番厳しい状況になる。発言を始めにすることで、議論の場は自分が造った土俵になります。

 柳沢校長は、開成中学、同高校、東大を卒業後、会社員を経て、ハーバード大教授、東大教授を経て、2011年より現職に就かれている。日本が、日本人が、発信することに躊躇している間に、世界は他のペースで流れ、結果として国益を損なっている。大人なる前の柔軟な高校生の内に気づかせたい。グローバル化が避けて通れない時代に、頼もしい教育者の発言である。それでは、いったい何故発言しないのであろうか。

 伝統的な“言い訳”は、日本には昔から「恥の文化」があるので、人前で恥をかくことを大変に嫌う。「沈黙は金」という格言もある。「お天道様が見ている」から人前でみっともないことをするな、という青年教育もある。このような大上段の文化論や教育習慣を持ち出すまでもなく、日常的な行為として、譲り合いの精神、あるいは気配りの精神は、間違いなく日本人に根付いている。改札で譲り合う、席を譲り合う、列をつくり我慢して待つ。しかし、それが過剰に働くようになると、柳沢校長の問題提議の核心に近づく。現に、質問をしようとするある女性は、高名な講師の貴重な時間を自分が奪ってしまうことを心配して、躊躇しているうちに質問の機会を逸すると云う。結果、発信する機会を失うだけでなく、意見を戦わすことで新たな知識の獲得や自分の意見の位置付ける機会も失っていたかもしれない。

 ある雑誌の記事を思い出した。在日外国人教師の発言であった。中国人や韓国人の留学生は、良く質問するし良く発言もする。一方の日本人は、黙っている学生が多い。理解してないのではないかと疑った。しかし、レポートを書かせてみると日本人の学生は、きちんと理解していることが分かった、という記事の内容だった。更に、別の外国人のインタビュー記事で、日本人は議論を避ける傾向があり、議論を避けているために合理的な結論を出す機会を逸している。徹底的に議論すると、人間関係が悪くなりなにもなかったように付き合うことが出来なくなると恐れているのではないかと思う。もし、人間関係が崩れる場合があったとしたら、ほとんどは他に原因がある。

 日本人のすべてが発言しない人ばかりではないことは自明だが、多くの日本人に潜む発言への躊躇感は否めない。この様な人の営みは、色々な構成要素からなっており、これさえを実行すれば向上するという単純なものではない。グルーバル人材の養成が叫ばれている中では、更に語学や異文化というより複雑な要素が加わる。このような複合課題の解決は、気づき自らを変えてゆく意志とその着実な実践が基本である。安易な方法はなく、基礎を固め、数多くその“現場”に浸り、自信を得ることで更に先に進むという道があるのだと思う。

以上

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