PMRクラブコーナー
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[プロジェクトとの出会い]

住友ケミカルエンジニアリング(株) PMR 田坂 明 [プロフィール] :3月号

 「P2M & PMAJへの期待」をテーマとしたPMRリレー随想であるが、趣味や自己紹介でもよいとのことであるので、文才の無い身のコンティンジェンシープランとして、自己紹介を中心にプロジェクトとの出会いなどについて紹介させて頂くことにする。
 生まれは、住友の町である愛媛県新居浜市である。新居浜の秋祭りは太鼓台による喧嘩祭りとして有名で、非常に勇壮で綺麗な太鼓台を約150名でかき上げる見応えのある祭りである。機会が有れば是非見てほしい。

 さて、私は高校2年頃には既に将来の就職として電気関係の仕事をすると決めていた。食いはぐれの無いローリスクの職業と考えたからである。これが最初のリスクマネージメントであったかもしれない。
このプロジェクト方針に従い、大学は電気工学科を専攻し、地元志向であった私は、教授の勧めもあり住友関連企業に入社し、ラッキーにも新居浜に配属された。(入社12年後、千葉に転勤となる) 仕事にも恵まれて、入社3ヶ月目にはモータが7台しかない小さな新設プラント建設現場の電気工事監督として現場に放り出された。客先と工事会社の狭間に立って約2か月間悪戦苦闘したが、この普通では得られない経験がこれまでの会社生活の基礎になったように思う。また、入社5ヶ月目からはシンガポールI期プロジェクトの電気設計に約2年間参画させてもらい、客先、ベンダー、工事会社などの多くのステークホルダーと関わり、英語を使った仕事にも馴染むことが出来た。経験がまだ浅かったことから難易度の高いシンガポールの現場へは行けなかったが、代わりにインドネシアの現場の電気責任者として約1年間出張を命ぜられた。

 シンガポール経由で北スマトラのメダン空港へ単身乗り込んだ時、椰子の匂いと共に、とても国際空港とは思えない未開の光景を目の当たりにして、なぜか感激したことを思い出す。これが異文化との最初の交流であったが、この時に習得した現地語が後のプロジェクトに大いに役に立つことになる。その後、国内の仕事のほかに、タイを中心とした海外プロジェクトで電気計装設計と工事管理を経験した。電気関係の現場管理業務は比較的時間に余裕があったこともあり、領域を越えていろんな部署に首を突っ込んでいるうちに、プロジェクトのサポート業務も行うようになっていた。
 正式にプロジェクトに配属されたのは1997年9月である。配属の翌日には約3週間のインド出張(プロポーザル業務)を命ぜられ、気の引き締まる思いをしたものである。プロジェクト配属後の最初の実JOBは、翌年受注したインドネシアのEPCプロジェクトのPM(兼Site Manager)であった。US$建ての契約で、為替リスクに苦しめられたプロジェクトで、見積提出時142円であった為替レートが、あれよあれよという間に円高に振れて受注時には130円を切る勢いであった。US$建ての契約ゆえ円高に伴い入金円貨(収入)が減少し、プロジェクトの実質収支上の死活問題となる。状況を打開する1つの方策として実行予算とは別に115円/US$(勘で決定)で採算が合うようにTarget予算を策定・可視化し、社内KOM時に開示してこれに沿って予算管理を徹底して行った。プロジェクト完了時には102円まで円高が進み、最終的な入金平均レートは112円/US$であった。為替予約やUS$貨での購買を増やすなどの対策も行ったが、最終的な入金円貨の目減りは当初実行予算からは相当額に達したが、辛うじてTarget予算の想定内に抑えることができた。
 最初のプロジェクトであったこともあり、これまでの経験の中では最も厳しいプロジェクトであったが、可能な限り兼務することで現場の体制を極少化したことや、1.5ヶ月前倒しにてメカコンできたこと、市況にも助けられて廉価購買できたこと等により何とか難局を凌ぐことができた。
 皮肉なことにプロジェクト終了後、待っていたかのように為替レートは再び円安に転じている。為替リスクは本当に恐ろしいと痛感した。

 現在超円高状態が長期間続いており、日本の国際競争力に大きな影を落としている。我々プラント産業も新規受注が困難な状況が続いている。現状を打開するために輸出産業としては積極的な海外進出が当面の対処策であろうが、長期的展望からは、日本の空洞化を如何に防いで子孫の繁栄を如何に担保するかが最も重要なミッションである。さて、どうするか?
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