PMP試験部会
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こうしてリスクは忘れ去られていく

笠原 直樹 [プロフィール] :2月号

 プロジェクトマネジャーも一人の人間である。プロジェクトで対峙するリスクについて、先のことを思い煩い時間を費やすことは意味が無いと解釈し、「早く忘れたい」「問題になったときに考えればよい」などと思うことも、人間の行動心理としては理解できる。脳科学の研究においても、マイナスの影響を及ぼすリスクに対して、脳の神経伝達物質のうち、アドレナリン系の影響によるものと考えられている闘争・逃避行動によって、ストレスを収束させる方向にもっていこうとするように働くと考えられている。これが、前述の行動心理につながっていると容易に想像できる。
さらに、社会的な風土や企業の文化などからの影響も大きな要因の一つと考えられる。リスクがあることそのものを良しとせず、「責任を追及されてしまうのではないか」と感じ、リスクそのものを隠蔽したり、リスクを知りえた状態を自己の責任ではない状態へと移行させるといった、いわゆる責任転嫁といわれる行動をとることも、よく聞かれることである。
また、特にIT系の失敗プロジェクトの特徴としてよく言われていることであるが、過酷な環境に長期間置かれていると、根本的な問題解決の声をあげられず、集団的に思考停止してしまい、目の前にある作業に没頭することによってプロジェクト失敗に突き進んでいくといった、いわゆる「デスマーチ」と呼ばれる行動が見られる場合もある。一般的には、レミング症候群と呼ばれることもある。この呼び名は、ツンドラ地帯に生息するレミングというネズミの一種が増殖などをきっかけに集団で海に飛び込んでいくという俗説になぞらえたものである。やはり、脳科学研究によれば、長時間のストレス環境下に置かれたときに分泌されるエンドルフィン系の麻薬様物質作用により、麻痺状態に陥り、個々が主体的な判断力を失ってしまう状態によるものと解釈できる。少々昔の話で恐縮だが、“赤信号、みんなで渡れば怖くない”という流行語もあった。

このような諸々の要因によって、正しいリスクマネジメントプロセスが機能せず、リスクは忘れ去られ、リスクリテラシーが低下していく。個々のプロジェクトマネジャーの資質問題の場合もあると思うが、重篤なのは組織のマネジメント力低下である。結果、まさにその組織や企業の存亡にかかわり、自然法則・経済原理に従って淘汰されていく。

では、生き残った組織はリスクリテラシーが高い組織なのか、というと必ずしもそうではない。リスクという特性を考えれば、たまたま致命的なリスクが発現せずうまく切り抜けられた、という場合もあるだろうし、断片的に、近隣の組織やプロジェクトから寄せられる情報あるいは社会報道などから“思い出して”、場当たり的に若干の対応を行なうことによって切り抜けることもあるだろう。加えて、前述の社会的風土に属する話になるが、我が国ではいわゆる“プロジェクトX”のような、次々に起こる問題と格闘し困難を克服してプロジェクトゴールを達成する、といった筋書きを好む傾向もあり、そういったドラマティックな話が賞賛され、内外から評価される、といったこともあるようである。プロジェクトマネジャーも達成感があるだろうし、自負、プライドなどにもつながり、自己の存在意義をアピールすることにもなるだろう。このようにプロジェクトマネジャーの属人的な技量により乗り切ってきたプロジェクトも多いのではないかと推察する。

もちろんそのようなプロジェクトを否定するつもりは毛頭ない。自社・自プロジェクトの利益だけでなく、国益や世界貢献などの大局的な観点から、困難に立ち向かい大義を果たした立派なプロジェクトの成功には、素直に共感を覚える。ここで申し上げたいのは、普段からの地道なリスクマネジメントへの取り組みや、継続的なプロセス改善によって、プロジェクトを成功に導いてきたプロジェクトマネジャーやプロジェクトチームに、スポットライトが当てられないとしたら、それには警鐘を鳴らす必要があるということである。逆説的に見えるかもしれないが、あたりまえのことをあたりまえにやる、ということは、実に難しいことである。リスクマネジメントそのものが価値を生み出していない、という誤解などに基づいて、ともすればオーバーヘッドとしてコストカット対象とされる事態は実に憂うべきことである。なお、単純なコストカット自体はコストマネジメント不在ともいえるが、ここでは別のテーマとして、また別の機会に譲りたい。話を元に戻すが、いささか乱暴な論理かもしれないが、本来の定量的リスク分析を実施し、それに基づいて合理的に意思決定を行なっていれば、きわめて客観的にその効果は明らかになるものである。

ビジネスの世界においては、正しくリスクを取ることがビジネスチャンスをつかむことにつながる。それは経営者による経営的な判断である場合もあるだろうし、プロジェクトマネジメントにおけるプロジェクトマネジャーの判断である場合もあるだろう。ビジネスチャンスを活かすことがビジネスの成功につながる。積極的なリスクマネジメントへの取り組みはプロジェクトの成功に不可欠である。それには、これまでの先人たちの歩んできた貴重な経験や事例から学び、教訓を活かすこととともに、それらを形式知化し共有することが重要である。そして、先のことを憂い思い煩うことではなく、“今まさに何をなすべきか”を主体的に決めていくこと、すなわちリスクを正しく査定し、対峙するといった、あたりまえのことをあたりまえにやり抜くことが、プロジェクトマネジャーに求められることではないだろうか。それには、人間が生理的、心理的に持っている行動特性を強く意識し、その罠に陥ることなく、正しいプロセスに従い、理性的、合理的に行動することが重要である。

最後になり恐縮ではあるが、この場を借りて申し上げたい。この原稿が公開されるころは、2011年3月11日の東日本大震災から約1年が経つころであろう。筆舌に尽くし難いが、多くの尊い人命が失われ、甚大な被害を受け、私たちは貴重な教訓を得た。決して風化させてはならないし、困難な状況のもとでも生き抜いていかなければならない。
東日本大震災により被害を受けられた皆さま、ならびにご家族の方々に謹んでお見舞いを申し上げるとともに、一日も早い復興と皆さまのご健康を心からお祈り申し上げる。

※PMP®、PMI®、PMBOK®は米国Project Management Institute, Inc.の登録商標である。記事中の表記は省略した。
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