ダブリンの風(98) 「国民」
高根 宏士:10月号
「国民」という言葉はある種の人種にとっては便利な言葉である。最近は永田町以外ではそれほど使われなくなったが、終戦まではよく使われていた。昔と今ではこの言葉は反対の意味で使われるが、どちらも国民を軽視しつつ、利用していることでは同じである。
昔は「国民」という名で一般の人々が「国」のために黙って献身することを要求された。小学校はその当時は国民学校といわれ、小学生は「小国民」といわれて、将来の「国民」予備軍として教育された。献身は、極端な場合、命さえ要求された。そしてそれらを要求するのは、権力を傘にきた連中である。彼らが本当に国のためを思っていたかどうかはわからない。それよりも自分のためか、より権力を持った上層部に対する自己保身のためであったようである。それに対して反対すると「非国民」というレッテルを貼られた。そして様々な圧力を加えられた。戦前は「国民」という名で国民は肉体的、精神的な犠牲を強いられたのである。
戦後はその反動で「国」とか「国民」という言葉が使われなくなった。これには米国の占領政策も影響していたかもしれない。とにかく戦前の意味で使われることはなくなった。
永田町で使われている「国民」には戦前の意味はなく、自分の意向を通すために主権を持った「国民」という言葉が使われる。最近特にその例が多い。例えば「それは国民が納得しない」という場合、本当の意味は国民が納得しないということではなく、自分が納得しないことを国民が納得しないという言葉にすり替えているだけである。他の例では「マニフェストに書いたことは国民に約束したことだから絶対に守らなければならない。そうでないときは解散して民意を問うべきだ」と言われることがあるが、国民の全てがマニフェストの一字一句全てに賛意を表しているわけではない。現実にマスコミのアンケートを見てもマニフェストに書いてある個々の政策には、反対が大勢であることも多くみられる。それでもこのような発言をしているのは相手の足を引っ張ることが目的である。この場合「国民」という単語は集合名詞である。「国民が納得しない」という意味は
① |
国民の全てが納得していない |
② |
大多数の国民が納得していない |
③ |
過半数の国民が納得していない |
④ |
少数の国民が納得していない |
⑤ |
国民の一人が納得していない |
のように色々に想像できる。多くは①か②と思ってしまう。あたかも言っていることが民意であるかのように思わせてしまうからくりがある。しかも国民と言われた場合、対応すべき具体的な相手が想定できず、反論をすることが困難になる場合が多い。万一「国民が納得していない」といわれている内容が、実は正当だった場合がある。その場合、発言した本人は「国民が納得していない」と言っただけなので、それは自分の意見ではなく、間違っていたという責任を取らなくてもよいということになる。
これらの発言は、言ったことの責任を取られないようにするために「国民」の名前を使っているだけであり、卑怯な言い方である。なぜ「自分は納得しない」と言えないのか。政治家ならば「自分は納得しない」ということを明確に説明した上で、国民に判断を仰ぐことが本来である。明確に述べる能力や知恵がなく、相手をやりこめる常套手段が「国民が納得しない」と云う言葉に象徴されている。
我々の間で「国民」に相当する言葉が「皆」である。相手の意見をつぶすために「それは皆が反対しています」と言ったり、自分の意見に反対されないように「皆はこのように考えています」という言葉をときどき耳にする。プロジェクトにSEの一種である政略(または政局)エンジニアがいる場合は「皆」という言葉が頻発する。
昔、気骨のあるPMが、ある方針をだした。そのとき一人の政略エンジニアがPMを引きずり下ろすために「皆が反対しています」とPMの上司や管理部門に訴えた。上司に呼び出されたPMは「皆とは誰だ。ここに連れてこい」といって黙らしたという逸話がある。その後他のだれからも反対の発言はなく、プロジェクトのチームワークは上がり、プロジェクトは成功裏に完了したということである。
|