ダブリンの風(93) 「弱さと強さ」
高根 宏士:4月号
2011年3月11日、仙台沖を震源とするマグニチュード(以下Mと略す)9.0の巨大地震と津波が発生し、東北から関東にかけての広範な地域に未曽有の被害がもたらされた。
PMAJオンライン読者や関係者で被害に遭われた方々もいらっしゃると思います。皆様には謹んでお見舞いを申し上げます。また不幸にして亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
今回の惨事を観ると、改めて自然の猛威に畏怖の念を覚えると共に人間の限界と弱さを感じました。釜石市で造られた世界最大の防波堤も易々と突破され、町は津波に蹂躙されてしまった。この防波堤はM8.5にも耐えられるように設計されていました。このM8.5の根拠は日本でこれまでに測定された地震で最大のものが明治三陸地震(M8.5)であり、歴史上では平安時代(869年)の貞観三陸地震(推定M8.3~M8.6)であったからである。ちなみに関東大震災はM7.9である。したがって設計条件として過去最大の大きさを想定すれば安全であろうということは常識的である。しかも貞観と明治の間には1000年の年月があることを考慮すれば、M8.5に耐えられれば実質問題はないと考えてよい。リスクマネジメントにおける発生確率を考えれば無視できる範囲である。しかし現実はそれを超えて大惨事を発生してしまった。
また福島第一原発の事故も同様である。7mの津波を想定して防波堤を造ってあったが、現実の津波は14M以上あったらしい。したがって色々考えられていた安全対策もこの津波のために全て機能しなくなってしまった。
この2つの例は人間の想像力の限界を示しているかもしれない。リスクマネジメントで発生確率、影響度、それから算出されるリスク指数をどんなに精緻に分析しても、所詮人間の想像の範囲でしか対応ができない。しかし自然はそれを一瞬にして超える。
思えば人間は数百万年(ホモサピエンス20万年、有史以来数千年)の経験しかないのに比べ地球は40数億年の経験をしている。この差を我々は謙虚に認識しなければならないであろう。地球の力に対して我々人間はいかに弱いかを痛感させる自然の一撃であった。
それでは我々人間は弱いままで消えていくのだろうか。小手先のリスクマネジメントが無力であっても人間にはそこから立ち上がる強さがある。今回感銘を受けたのは若い人達である。例えば自らも被災した陸前高田の中学生が被災した人たちを元気づけようとして避難所に張り出した
「ガンバロー高田 命あることを喜ぼう」
という言葉にはどん底から立ち上がろうとする意欲と若々しい力が見られる。また避難所の小学生が劣悪な環境の中でも遊びに興ずる姿に、苦難をも楽しみに変えてしまう強さが感じられる。そして高校生の甲斐甲斐しいボランティア姿には年配者が口癖のようにいう「最近の若いのは」というような雰囲気はみじんも感じられず、優しさがあふれている。
そして何よりも人の「和」である。どんなに苦しい中でもお互いに相手のことを思いやろうとする心がある。無償で水を届けるトラック運転手。自らも被災者でありながら被災者にラーメンを振る舞う元ラーメン店主。
そして原発の現場で危険をも顧みず頑張っている方々をはじめとして、犠牲的精神で集団を維持しようと奮闘している多くの方々がいる。
マネジメント手法やスキル、表層の知識が役に立たなくなった時、最後に現れるのは
「若さ」と「和」
ではないだろうか。これこそが人間の強みではないだろうか。
最後に50数年前に読んだことのあるパスカルのパンセにある有名な言葉を掲げます。参考になれば幸いです。
「人間は 一本の葦にすぎない。自然の中で 最も弱いものである。だが、それは考える葦である。人間を押しつぶすために、宇宙全体が武装する必要はない。一滴の水でも 人間を殺すには十分である。しかし宇宙が人間を押しつぶしたとしても、人間は 自分を殺すものより崇高である。なぜなら、人間は自分が死ぬことを、そして宇宙が自分よりも優れていることを知っている。宇宙は そのようなことを何も知らない。したがって私たちの尊厳のすべては、考えることにある。私たちが立ち上がるべきは そこからであって、私たちが満たすことのできない空間や時間からではない。」 |