関西P2M研究会コーナー
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こころとは何?

稲葉 晃 [プロフィール] :11月号

 昨年6月、関西P2M研究会の「プロジェクトマネジメントにおけるメンタルヘルス」分科会アドバイザーとして参加することになりました。そしてこの一年半では、多くのすばらしい研究発表を通じた研鑽の場をいただき、誠にありがたく感謝しています。分科会では心の病について話し合う機に、そもそもこころとは何なのか、あれこれ考えてみました。
 人間の心は何?と考えた時に、私が思い出すのは、精神分析学者フロイトの“心的装置”と云われる、いわゆる内蔵をイメージしたような袋のような図です。こころは英語でheartですが、心臓のことなのでしょうか。フロイトも心臓をイメージして心的装置を考えたのでしょうか。どんな形をしているかを考えると、なるほどイメージし易いなと私は共感してしまいます。
 そこで、フロイトの精神分析学の構造論と局所論をひも解いてみました。そして、こころと脳の関係はどうなっているのでしょうか。
構造論: 心をイド、自我、超自我という三層からなるモデル(心的装置)として捉えるもの。
  イド id (エス es) :本能的性欲動といわれ、ヒトの精神エネルギーの源泉に当たる。
本能のままに、今すぐあれがしたい、これがしたい、という欲求を出して満足を求める。
本能的感情、欲求、衝動であり、自我を通じて防衛したり昇華したりするのがイドである。
  自我 ego :イドの上に存在し、理性的にイドをコントロールするなど、本能的な欲求を現実に合った形にする役割や、その欲求を叶えるために必要なプランを立てるなどといった準備行動を作り上げる。また、超自我からの要求に葛藤を覚え悩まされるのが自我である。自我は一般的に使われているように意識の概念が強いが、フロイトは意識、前意識、無意識的防衛を含む心の構造であると明確化した。
  超自我 super-ego : 常に道徳的、倫理的であろうとする部分である。良心あるいは道徳的禁止機能を果たす。幼児期に親のしつけなどを通して行動の良し悪しを学び、成長するにつれ、人への迷惑はやってはいけないと判断できるようになる。両親から受け継いだ遺伝子、本性、知性などが超自我になる。超自我は無意識の時と意識の両方に現れている。
局所論: 心を意識、前意識、無意識の三層からなる心的装置として捉えるもの。
  意識 :自分が現在認知している内容やことがらである。見る、話す、聞くなど今起こっている現象を自覚していること、経験していることを意識とよぶ。
  前意識 :自分が現在認知していないことがらのうち、強いて努めれば思い出すことが可能な状態のこと。意識されてはいないが、思い出そうと注意を向ければ思い出せ、いつでも意識の中に入り込めるもの。遠い過去の記憶は前意識になる。
  無意識 : 個人の行動を左右し、思考や感情に大きな影響を与えながらも、本人は自覚しない心的状態のこと。意識することはできなく、意識すると精神衛生上よくないものは、意識することなく無意識に押し込まれ、忘れた状態になる。
 この三層であるこころは、海に浮かぶ氷山に例えられる。水面下に浮かんで目に見える部分が、思ったり、感じたりする意識の部分で水の上少しの部分だけである。水面ギリギリで浮き沈みしている部分が前意識であり、水面下で我々の目に見えない部分で、意識の数十倍あるといわれる部分が無意識である。
 意識は無意識の行動などエネルギーを承認あるいは却下しているだけで、無意識で行動することは多くある。前意識は普段意識されないけれど、ふとした拍子に思いだすものや、手さぐりで思い出すことがあるのは、前意識が働くのである。
  脳の働き
 しかし、こころはどこにあるのでしょう?三層で成り立っている概念は分かった。こころである感情が脳をして泣かせる。意識だけでなく「感情」という「無意識」も脳をして色々な働きをさせている。「自分」と「意思」「無意識」「前意識』が「こころ」であり、脳と連動している。
 一方、脳の研究が進んだ現代は、脳がこころを生んでいるとの考えが主流になっています。こんがらかります。こころと脳を考えて行くのはどうも哲学の世界です。
 脳とこころの連動ぶりを見てみます。
 錯覚、錯視があります。同じ長さの二本の線分に、やじりを夫々両端に内向きと外向きに付けると、やじりが内向きの線分の方が短く見える。同じものを見ているのに、こころの中に浮かんでくるもの、意識に浮かんでくるものが違う。脳が勝手に想像して補正しようとするから錯覚が生じてくる。意識ではコントロールできない。
 150Kmで飛んでくるボールをプロ選手はどうして打ち返しているのだろう。ピッチャーからバッターに球が届く時間は0.5秒かかるという。また脳がものや文字を見て判断するまでに0.5秒かかるとのことである。そうすると球を打つ時間に合わないから、判断ではない。プロ選手は「何も考えていない、無意識だ」と答えている。この場合の見ているのは、「視覚野」で見ているのではなく、目の情報をもう一つ「上丘(じょうきゅう)」という場所を使って見ている。字が読めるほど上丘の機能は発達していなく、処理の仕方が原始的で単純だから、判断が速くて正確なのである。プロの剛速球は上丘で見て判断しているのです。見る行為は無意識なのです。
 ではそもそも意識は何だろうか。それは自分の行動の表現を選択していることである。呼吸をする、呼吸を止める。歩いているとき立ち止まる等がそれである。「言葉」は意識の表れで一番ランクの高いものであろう。同じ内容を伝えるのも色々な表現が出来る。
 面白いのは「顔の表情」、たいていの場合は無意識だけれど、ある部分は意識なのだ。呼吸と同じで意識と無意識の中間である。それに、表情は人種を超えて世界共通である。しかも6種類に分けられる。知っていますか、6種類を?
 海馬を研究している池谷裕二東大準教授は、「こころの定義は難しいが、意識・無意識を含めた脳の形而上学的な作用というか、そういった精神作用全般をこころと言ってしまおう」と言っています。意識、無意識とこころ、人間のからだ、神秘的ですね。      (完)
*参考  「進化しすぎた脳 」  池谷裕二  BLUE BACKS
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