PMプロの知恵コーナー
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「エンタテイメント論」(26)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :5月号

エンタテイメント論

第1部 エンタテイメント論の概要

15 スポーツとスポーツ産業の実態
●スポーツとは
 日本ではスポーツは、あくまでスポーツであって、それをエンタテイメントの範疇に属すると考えたり、エンタテイメント・ビジネスの重要な要素と考えない様だ。何故ならスポーツは、「体」を鍛え、「精神」を鍛え、「健康」に良いものでる。 「遊び」なんかではないと考えるからである。

 また「アマチャー・スポーツは、アマチャー精神があり、神聖なものである。しかしプロ・スポーツは、金儲け主義であり、神聖なものではない」と考える傾向がある。この考え方は、欧米社会にもあったし、今もある様だ。その証拠に、昔のオリンピックでは「アマチュア選手のみ出場資格がある」と決められていたからである。そしてオリンピックに参加すること自体が「栄誉」であり、「最高の報酬」であると考えられ、スポーツで金を稼ぐ選手は参加者にふさわしくないとされていた。

●オリンピック憲章の歴史的変更
 世界中の人々は、メディア技術の飛躍的進歩によって世界各国のスポーツの様子が瞬時に分かる様になった。そのためスポーツ界の国家的イベントである「オリンピック」の場に世界最高の超一流選手が参加することを強く望む様になった。それはプロ選手の参加を意味した。そしてその機運は頂点に達した。

 その機運とオリンピックの更なる発展を期して「国際オリンピック委員会(IOC)」は、遂に1974年、プロ選手のオリンピック参加を認めた。ギリシアのアテネで1896年、近代オリンピクの第1回大会が開催されて以来、初めて「アマチュア」という用語がオリンピック憲章及びその細則から完全に削除された。まさに歴史的出来ごとであった。

 現在のオリンピック憲章は、@競技ルールを守ること、A正々堂々、公明正大な行為と態度(非暴力)を取ること、Bドーピング禁止規定を順守することを定めた。その実施細則は、オリンピク各競技連盟が決めることになっている。
出典:JOC HP 第1回 アテネ大会 1896年4月6日〜15日 出典:JOC HP
 第1回 アテネ大会
 1896年4月6日〜15日

●オリンピックとスポーツ
 世界中の人々は、1974年を境にして、オリンピックで世界最高の超一流プロ選手の素晴らしい競技を見ることが可能になった。と同時にオリンピックが世界最高の国家的エンタテイメント・イベントの色彩を濃厚にした。またオリンピックをビジネスと捉える考え方が定着し、その方法論をあらゆる分野で研究され、実行される様になった。

 オリンピック発足の当初から現在に至るまで、オリンピックは国家の威信、国家の宣伝、国家の戦略などを訴える重要、有効、確実な機会と手段と本音では考えられてきた。そのため「参加することに意義がある」と幾ら主張されても、「金が幾つとれたか」に重要な意義を見出してきた。そしてプロ選手の出場が可能になった以降、オリンピックは、周知の通り、益々派手になってきた。

 派手になった頂点は、2008年8月に開催された北京オリンピックであろう。本連載「エンタテイメント論」の(6)と(7)で北京オリンピックを論じた。中国は、国家の威信をかけ、51個の金メダルを獲得した。36個の米国、23個のロシアを完全に抑え、その存在感を世界に示した。日本は、金9個で韓国の13個にも及ばなかった。中国政府は、オリンピックのエンタテイメント性もキチンと認識し、その演出を、ある人物に任せた。
出典:IOC HP 北京オリンピックの開会式のアトラクション
出典:IOC HP
北京オリンピックの開会式のアトラクション

 ある人物とは、世界の映画界で注目されている「張 芸謀(チャン・イーモア)」映画監督である。彼は、開会式、アトラクション、そして閉会式の総監督・制作・指揮を担当した。彼の演出したものは、壮大で、新鮮で、斬新で、色と形と光に満ちた素晴らしいものであった。どれをとっても過去のどのオリンピックに存在しなかったものを創り出した。そしてスポーツの祭典であるオリンピックにもともと備わっている「エンタテイメントの命」に更なる輝きを与えた。一方中国政府は、オリンピックの場で世界中から集まる多くの人々をエンタテイン(接待ではなく、交流)した。そして過去、現在、未来の中国の姿を強くアッピールしたのである。

 過去にオリンピックを活用した為政者は数多く存在する。特にA.ヒットラーは、オリンピックを「アーリア民族の優秀性と自らの権力を世界中に誇示する絶好の機会」と位置づけた。そして総力を挙げて、オリンピック・スタジアム、選手村、空港、道路、鉄道、ホテルなどを短期間で完成させた。
出典: ベルリン・オリンピック フリー百科事典「ウィキペディア」
出典: ベルリン・オリンピック
 フリー百科事典「ウィキペディア」

●国家的オリンピックとオリンピック論
 オリンピック憲章第33条第2項は「オリンピック競技大会を開催する栄誉と責任は、オリンピック競技大会の開催都市に指定された都市にIOCによって委ねられる」とされている。「サッカーワールド・カップ」と違い、オリンピックの開催権は、「国」ではなく、「都市」に対して与えられる。オリンピックの国家からの自立性を担保しようとしている。しかし実質は国の協力なしではオリンピックは成り立ち得ない。またスポーツは、国の成立と不可分な形で形成されてきた歴史がある。そのためオリンピックと国家との関係は密接不可分の関係がある。

 以上の経緯から筆者は、オリンピックを国家的イベントと述べている。なおオリンピックを話題にすると、それを神聖視し、その不可侵性を主張する「オリンピック擁護理想主義(オリンピズム)」とオリンピックを政治的プロパガンダの道具と決め付ける「オリンピック存在否定主張(アンチ・オリンピズム)」が主張される。筆者は、そのいずれにも組みしていない。

●冬季バンクーバー・オリンピック
 冬季バンクーバー・パラリンピックの日本の獲得メダルは、金3、銀3、銅5の計11個である。2006年トリノ大会の金2、銀5、銅2の計9個を上回った。アルペンで新戦力が台頭し、アイス・スレッジホッケーで初の銀メダルを獲得し、大きい成果を上げた。しかし健常者のオリンピックでは、日本は、金メダルがゼロという情けない結果になった。解説者として参加した荒川静香氏が前回のトリノ・オリンピックで獲得した金メダルは、一層の輝きを増した。

 当時の荒川選手は、フリー演技使用楽曲を歌劇トゥーランドットの「誰も寝てはならぬ(歌劇トゥーランドット:イタリアの作曲家ブッチーニの遺作)」を採用し、競技直前、イヤフォンでその曲を聞き、集中力を高めた。そして競技評価対象でない「イナバウアー」の演技を敢えて加えた。

 観客は、音楽に酔い、彼女の演技に魅了され、演技が終わらないのに、興奮し、拍手し、立ち上がった。彼女は、オリンピック競技の場で、自ら楽しみ、観客も楽しませることに徹した。彼女が見せた高度で優れた演技は、スポーツが生み出す素晴らしい価値の存在を示した。と同時にスポーツが持つ楽しいエンタテイメントの価値の存在も示した。荒川氏は、選手生活を引退後、「アイス・ショー」で演技する子供の頃からの「夢」を実現させた。そしてエンタテイメント・ビジネスの場で「エンタテイナー」として活躍している。
冬季バンクーバー(日本時間)03月01日(月)07時58分現在 出典:2009年「Festa On Ice」での荒川静香 フリー百科事典「ウィキペディア」
冬季バンクーバー
(日本時間)03月01日(月)07時58分現在
出典:2009年「Festa On Ice」での荒川静香
フリー百科事典「ウィキペディア」

 なおオリンピックでのアイス・スケートは、本来、ショーの要素を濃厚に持っているからエンタテイメント性がある。しかしオリンピックは、スポーツであって、エンタテイメントの範疇に入らないと考える人はまだ数多くいるだろう。しかし射撃競技やジャンプ競技などは工夫すれば、幾らでもショーの形に転換することは可能で、事業採算性の問題さえクリアーすればいつからでも実現する。その様なことをしなくてもオリンピック自体が現在では、国家的エンタテイメント・イベントになっている。

●筆者のオリンピック・エンタテイメント説
 筆者のオリンピック・エンタテイメント説とベルリン・オリンピックを利用したヒットラーの国家戦略論とは区別して欲しい。ヒットラーは、最初、オリンピックの開催に反対していた。しかし戦争の道具としたオリンピックを利用できることが分かり実行した。しかし彼がエンタテイメントの意義を理解していたとは考え難い。

 さてオリンピックは、周知の通り、その開催は指定都市が行うが、実質は国家的メガ・イベントである。それは国と国とが戦うスポーツ競技である。オリンピックで勝つために頑張る選手達は、自らのために戦うとしても、オリンピックが国家的プロジェクトの一環に組み込まれているために、国を代表して戦うことになる。一方世界各国は、プロ・アマを問わず最優秀スポーツ選手をオリンピックに送り込み、そのために優秀なスポーツ人材の発掘と育成のために可能な限り、国家予算を投下している。しかもオリンピックを重要且つ有効なエンタテイメントの場としも認識している。

 一方日本ではどうであろうか。オリンピックを国家的プロジェクトとする国民的認識は薄い。多くの人々は日頃のオリンピックへの関心が薄く、オリンピック前後だけ一時的に高まる。夢を持って日々の真摯に努力を積み重ねている選手達は、国の名誉を背負うオリンピックに憧れ、参加している。一方多くの日本国民は、参加選手に厳しい評価と過大な期待と圧力を掛ける。これでは選手達にプレッシャーを掛けるだけになる。しかもオリンピックへの選手強化のための国や自治体の予算は、世界各国と比べてかなり少ない。スポンサーが付かない人気の無いオリンピック種目競技では選手達は自腹を切って練習し、PRしている。

 オリンピックやその他のスポーツ競技は、プロ、アマの区別なく、極めて高いエンタテイメント性があり、本人も、それを観る人も、心から楽しめること、そして選手との交流も可能であることに気付いて欲しい。スポーツのエンタテイメント性を国、自治体、企業がより認識すれば、彼ら選手を経済的に支えることに多くの金を使っても、十分な見返りが期待できることに気付くだろう。

●オリンピックを目指す選手達
 オリンピックで「金メダル」を取ることは、他の如何なる世界選手権で「金メダル」を取ることよりも価値がある。「オリンピックに魔モノがいる」と言われている程、如何に多くの世界選手権で金メダルを取っている選手でもオリンピックで失敗し、金メダルを逃すのである。それほどオリンピックは特別な存在である。そして観客は選手の競技に熱中する。まさにエンタテイメントの極致を観る思いである。

 オリンピックを目指す選手や参加する選手は、一般の日本国民よりも遥かにオリンピックを特別な存在と認識する。何故なのか。その答えは極めて明白である。オリンピックが世界で最も重要な「国家間スポーツ競技」であり、その競技で金メダルを取れば、自分の死後も自分の名前は世界的に記録され、自分の子々孫々に伝わると考えているからである。従って多くの選手達はオリンピックでの「金メダル」を取るために「命」を懸けているのである。中国や韓国は、行き過ぎと批判されても、欧米に、日本に負けない「国作り」のために、オリンピックを国家最重要戦略目標の一つに決定し、選手達が「汗と涙と血」を流して努力していることを本気と本音で支援しているのである。そして「メダル獲得者」には、国は、その後の生活を保障している。日本の国や自治体、企業、そして国民は、オリンピック開催が終わった今、オリンピックの意義と効用を再度、考えてみてはどうだろう。
つづく
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