「グローバルPMへの窓」(第45回) P2M 厳寒のウクライナを駆け抜けたP2M その4
厳寒のウクライナ・・・とエッセイを続けているうちにとっくに冬は過ぎ、春もまっただなかと言いたいが日本では異常気候が続いており、4月はウクライナの方がはるかに温かいらしい。
4月にも色々なことをやった。久しぶりにアジア太平洋プロジェクトマネジメント協会連盟(Asia Pacific Federation of Project Management:略称APFPM)の会議が香港で開かれた。3月23日夕方のフライトで香港に向かい深夜着、24日(土)の朝9時から夕方5時まで、びっしりのアジェンダをこなし、引き続きホスト協会の年次ディナーに出席して、深夜の便でとんぼ帰りした。この会議には、提案者でリーダーであるオーストラリアPM協会(AIPM)、中国PM協会(CPMRC)、インドPM協会(PMAI)、アメリカPM振興協会(ASAPM)、ネパールPM協会、PMAJ (田中)それにホストの香港PM協会(HKIPM)が参加した。APFPMは1996年に立ち上げをしたが、これまで2回挫折している。しかし今回はうまくいきそうだ。
AIPMは、資源価格の再度の高騰の恩恵を存分に受ける資源国オーストラリアを背景に、世界のPM協会が受難の時にあっても極めて元気である。中国協会も上昇一途の同国経済のお陰で同じように元気だが、インド協会は、好調のIT産業はすべてPMI Indiaについており、上昇気流に乗りきれない様子である。
この種の多国協調PM会議への出席は昨年度控えていたこともあり、久しぶりであったが、アジア太平洋の時代にあってアジア/オーストラリアのPM協会との連携は極めて大事でありAPFPMの展開にはPMAJも積極的に協力したい。
また、4月はイランの石油・天然ガス生産関係のエクゼクティブ向けのPM研修を、私の母校である大学の教授からの要請を受け、東京で行った。PM研修とはいえ、通常のPMプロセスの研修はほとんど行わず、開発投資戦略、プロジェクトのフォーメーション戦略、対コントラクター戦略、コストエンジニアリング、などが内容で、はてはイランの発展戦略などの質問もでてきた。石油産業も上流の生産と下流の精製ではかなりプロジェクトの進め方が異なり、後者出身の私には手に余るトピックスもあるが、石油・天然ガス生産でPMを語れる人は日本にほとんどいないようで、分からないことは分からないとはっきり伝えたうえで研修を進め、ご満足をいただいたようだ(次はテヘランでやろうと)。
ウクライナであるが、早くもウクライナ日本センター(JICAプロジェクト)+ウクライナPM協会+PMAJコンソーシアムによるP2Mイノベーションセミナーの第2ラウンドが決まり5月18日から6月5日まで私にとって5回目のウクライナ訪問を予定している。
さて、本題に戻したい。 ハリコフ工業大学をホストとしてのP2Mセミナーの2日目には私の人生ではなかなか味わえない栄誉に浴した。レオニド学長が全学部長と学科長総勢120名を特別教室に召集し、特別講義を設営してくれた。特別講義といっても同国トップクラスの学者達にセオリーを説いたのでは化けの皮が1分ではげてしまう。そこで、世界で私だけという経歴を三つほど挙げたあと、イノベーションを支えるマネジメントの話をしてなんとか切り抜けた。英語で講演をやってウクライナ語の通訳がはいるというワンクッションが入るお陰でプレッシャーもなく楽しく30分の特別講義を終えた。ちなみに私のあと応援講演をやったセルゲイ会長の番になったら、議論が白熱した。
ハリコフの次はドネプロニプロフスクである。ハリコフからの陸路300キロを小型バスで移動した。同国でポピュラーな乗客12名乗りの大型バンをチャーターした。移動には4時間半かかったが、これで日本円相当で9千円のチャーター料である。タクシーであるとなんと7千円で済むという。かなり北にあるハリコフから真南に向かったのであるが、距離を稼ぐごとに雪の厚さが増えていって、12月で日を増すごとに冬が深まるのを感じた。
ドネプロ・・・とは首都キエフも2分しているドネプロ河が黒海に注ぐ途中にこの都市があるのでその名がついたもので、人口2百万の大都市で、ハリコフと同じようにソ連時代は外国人立ち入り禁止のハイテク産業都市であった。鉄鋼産業、航空機産業、石炭産業などが主要であり、大学も大小合わせて10校ほどある学術都市でもある。
|
|
ワークショップで教授・社会人・学生 |
学生達は記念写真が大好き |
こちらの国立鉱業大学をホストとしたP2Mセミナーは産業関係者の割合が高く、若干複雑であるP2Mは分かりにくかったか、途中での質問やコメントが他のセミナーより多く出た。「システムエンジニアリングとは何か」、「価値とは具体的に何か」、「日本人はこんな複雑な体系を本当に活用しているのか。その時間はあるのか」、「ウクライナ語訳の精度が低い。ロシア語版の資料をほしい」等である。
ウクライナ語使用というのは、5つのセミナーのホストがすべて国立大学であるので、国語であるウクライナ語を使用するという建前からそうなったのであるが、20歳までの国民を除いて、教育はすべてロシア語で受けてきており、ふだんの議論もロシア語で行っている、そのよう中ではおかしなことだが、国語を使用すると記述が不正確になるという現象があるのだ。
3日間のドニプロ滞在を終えて、今度はタクシー(シボレー)をチャーターして一路南下してニコラエフに向かった。やはり4時間の道のりである。まさに巡業のごとしである。P2Mチームにとって幸いなのはキエフから運んできたセミナー資料の段ボール箱の数が日に日に減ることである。ウクライナには国内向けの宅配便はまだ整備不十分であるので、3回分のセミナー資料を持ち歩くのである。
さあ、P2Mセミナーもあと一回である。ニコラエフは造船都市で人口60万人。旧ソ連でレニングラード(現サンクトペテルスブルグ)と共にソ連の軍艦と商船を一手に建造していた都市だけに造船では世界きっての技術が蓄積されており、特に航空母艦の建造技術は世界一である由。ただし、ソ連がなくなったら軍艦の建造ビジネスは大幅に減り、中型商船の建造や、ドックヤードをファブリケーションヤードに転換して鉄鋼構造物を請け負ったりしてしのんでいる。都市全体がイノベーションを模索中である。
|
|
セルゲイ先生の講義 学長(右端)も受講 |
造船大学らしい大講堂 |
当地でのホストは国立造船大学が務めてくれた。造船大学といっても経営学系を含めて16ぐらいの学部があり17,000名の学生がいる総合大学である。セミナーには、2008年にオデッサ市で開催した私のP2Mセミナーに参加してくれた近辺都市の大学教授達6名を含めて50名の受講者があった。P2Mが大好きな人が多く、大変充実したセミナーとなった。初日にはなんとセルゲイ・リスコフ 学長が午後3時頃まで受講された。
学長に冗談で、P2Mの資格試験を受けてみませんかともちかけたら、ぜひ挑戦したいとのお言葉をいただいた。
オデッサ以来の友人の教授達いわく、「田中先生、私たちは教授専業だけれど、先生のように丸二日間連続でこのようなハイペースで講義を淀みなくできる訓練はできていないし、体力も気力も続かない。いやすごいですね。」と感心してくれた。
それほどでもないが、勤務先の海外展開の揺籃期から、会社を代表して色々な局面で丸1日のプレゼンテーションを行う、月に何度かは海外顧客の若手のエンジニア達のトレーニングを行う、という日々を送ってきた。ブランクはあっても身体が1日のトーク展開のリズムを覚えているので、このようなきつい日程のセミナーを担当できるのであろう。しかし、最近自分の年齢を感じるのは、50歳代までは、取材を終え、話の構成を行って、プレゼンテーション資料の総合調整を終えると、あとはほとんどスライドを見ないでも講演ができたが、今はスライドをちらちら見ながらでないと話を進められないことである。
さて、話は前後するが、当地ニコラエフではとうとうウオッカパーティーの封印を解かされた。例によって当市に到着するとカルチュラルイベントという交流行事が待っていた。
着いた日は土曜日の午後で、この日はオフでほっとしたが、翌日曜日は2千年前に建造された古代ギリシャ都市オリビアで歓迎会を開催してくれるという。歓迎団長は造船大学のコスチャ・コンスタンチン学部長である。コスチャ先生については、ハリコフあたりから、大酒豪で我々の到着を首を長くして待っているので注意するようにPM教授方から度々忠告をもらっていた。コスチャ先生の通称はプロフェッサー・チュチュットという。「チュチュット」というのは盃を受ける際に「ちょっとだけ」の意味であり、ロシア人やウクライナ人はウォッカで「チュチュット」を何十回となく、5〜6時間にわたり繰り返し出来上がっていく。
古代都市の見学もそこそこにして、ドニプロ河が黒海に注ぎ込む河口のあたりを見渡し、寒風が吹きすさぶ高台にある番小屋(まさに漁師の番小屋)で早速歓迎会が始まった。助教授の女性が家で作ってきてくれたフィッシュスープが絶品であり、潮風の香りのしみ込んだ羊のカバブもうまい。野菜のサラダも実に新鮮であった。しかし、当然ウォッカのご相伴を強要され、あす講義があるのでワインで、の申し出には、もうP2Mセミナーは終わったも同然だ、ウクライナと日本の親善はウォッカ抜きでは始まらない、とのプロフェッサー・チュチュットのお言葉に、それもそうだと、私もチュチュットを始めたが、久しぶりでビール以外を飲んだのでしばらくすると天と地が逆さに見えてきた。
すると先生から、田中さんそこで寝ていてください、もうすぐ終わるから、と。どのくらい時間が経ったであろうか。眠りから覚めたらすでに夕方で、宴会はまだ続いていたが、さすがにもう帰ろうかとの声が上がり、ホテルに午後7時頃帰り着いた。するとまだ続きがあった。セルゲイ会長の部屋で総括が始まったのである。しかし、私はすぐに解放されて翌日の講義に響くことはなかった。
♥♥♥♥♥
|