ダブリンの風(78) 「「学ぶ」ということ」
高根 宏士:1月号
あけましておめでとうございます。21世紀にはいって、10年になりました。その間世の中はますます騒がしくなってきました。地球温暖化問題、経済の混乱、政治におけるビジョンのなさ等、憂うべきことは多々あります。個人的には年男であり、72歳になります。一休宗純の「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」や小林一茶の「めでたさも中くらいなりおらが春」とい言う言葉が身にしみるようになってきました。
ところで一般的には1年の計は元旦にありと言われます。これからの1年をどう生きていくかいろいろ考えられることでしょう。そして昨日の自分よりは今日、今日の自分よりは明日の自分が少しでも進歩したいと願っている人は常に「学ぶ」ということを意識していることと思います。
この「学ぶ」ということについて面白く、深刻な調査結果が公開されました。ゆとり教育が取り入れられた世代の特徴に関してです。調査によるとゆとり世代に見られる特徴は「コミュニケーションが浅い」、「失敗を極端に恐れる」、「言われたことしかしない」ということだそうです。この結果はゆとり教育を導入した人たちの意図したものではないでしょう。当初の意図は「考える」、「創造性に富む」人材を作ることだったはずです。結果は逆でした。このずれはどこにあったのでしょうか。目的は良かったが、「ゆとり」という手段に問題があったのではないでしょうか。「考える」ためには考える素材を持っていなければならない。ところがその素材は外部から吸収しなければならない。この吸収という行為をやらなくなってしまっては考えることもできません。人間は幼稚園から小学校低学年の年代が最も知識を吸収しやすい。昔はその年代にできるだけ吸収させるようにしました。例えば湯川秀樹はこの年代に漢文の素読をやっています。それも少しかじったというレベルではなく、四書五経など多くの古典の素読をしています。また明治時代に活躍した人たちも同じような経験をしています。英文学者で小説家だった夏目漱石の漢文の紀行文は素晴らしいですが、それも子供のころの吸収があったからでしょう。子供のころに吸収したものが青年、成人へと成長していく時間の中で融合し、化学反応を起こし、大きな成果を挙げたのではないでしょうか。
礼記という本に、学問のレベルに「蔵 修 息 游」という4段階があると書いてあります。「蔵」は一所懸命に記憶して、取り入れることです。「修」は取り入れたものを消化して、血となし、肉とすることです。「蔵」と「修」とが身につくと、学問をしているのが当たり前の状態となり、学問が呼吸と同じになるから「息」となります。そして、最後の「游」の段階では学問にゆったりと遊ぶ境地になります。この「游」の段階がゆとりではないでしょうか。 前3段階(特に「蔵」の段階)を通らないで外から「遊ぶ」段階を強制的に作るのは反ってひ弱で、怠惰な人間をつくることになるのではないでしょうか。
ただし、ここで「蔵」について注意しなければならないことは、それは明日になったらすぐに旧くなって陳腐化してしまう情報を一所懸命詰め込んでも、それは何のためにもならないということです。そのような情報は必要な時に必要なものだけを取り込めばよいのです。考えるベースになり、生き方の土台になる「自然原理」「人間に関する基本的認識」に関するものを先ずは徹底的に「蔵」することです。
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