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「エンタテイメント論」(21)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :12月号

エンタテイメント論

第1部 エンタテイメント論の概要

14 音楽と音楽産業の実態
●日本のハード・ウエアの世界に於ける「内型ガラパゴス」
 先月号で音楽や映画のソフト・ウエアの世界に於ける「内型ガラパゴス」を簡単に述べた。それらのソフト・ウエア(コンテンツ)に関係するハードウエーには様々なモノがある。それらの中で「内型ガラパゴス」の代表例として、通話機能の外に様々な音楽ソフト(最近は映像ソフト)の送受信機能を持つ日本の携帯電話(ハード・ウエア)を論じてみたい。

 日本の携帯電話の仕様は、第1世代(アナログ方式)は、HiCAP、第2世代(デジタル方式)はPDC、第3世代はW-CDMAであった。そして音楽再生、電子マネーなどの独自の機能が続々と付加された。その契約数は、1998年の約3200万台から2008年には約1億300万台になった(電気通信事業者協会調査)。しかし国際標準化が難しく、世界での普及は極めて低い結果になった。世界の携帯電話機の2007年の出荷台数シェアは、1位のノキア(フィンランド)39%、2位のサムスン(韓国)14%、3位のモトローラ(米国)14%(ストラテジー・アナリスティック調査)。日本企業は事実上存在しない。

 世界の多くの国々に於いて第2世代の仕様が一般的で、日本の様な過剰な機能を持たない携帯電話が普及した。またSIMカードさえあれば異なるメーカーの端末を自由に取り替えることもできる。しかし日本では出来ない。日本の携帯電話が世界市場での競争力を待たないため、将来、逆に日本市場で競争力を失う危険がある。

 日本の携帯電話は、新機種が開発されると直ぐに発売される。新しモノ好きの顧客は、直ぐに飛び付いて買う。彼らは、使用上の問題をメーカーに指摘するので一種のモニター役を負わされている。一方使い方にやっと慣れた一般顧客は、新しい携帯電話に買い替え様とすると、次々と開発され、付加された重装備の新機種に驚かされる。そして購入を躊躇する。中高年社会になっているにかかわらず、中高年に使い勝手が良い電話がない。あっても中高年を馬鹿にしている様な電話機である。しかも日本のメーカーは、日本市場だけの狭い視野で愚かな過当開発競争を繰り返し、「内型ガラパゴス」の携帯電話機を生産している。この状況は、携帯電話機ばかりではない。電化製品、音響製品などでも同様である。

 世界は、現実の市場実態を見つつも、携帯電話機に拘らず、激動と激変の時代を先取りするため「ボディー・コンピューター」のコンセプトに基づき、超高性能&超高機能の「モバイル端末マシン」を密かに開発している様だ。もしその開発が実用化された時、日本は一挙に取り残されるのである。

出典:日経BP NET 出典:長崎大学・ライブラリー所蔵 出典 グーグル・アース(GE)
エクアドルのガラパゴス諸島
●日本のヒューマン・ウエアの世界に於ける「内型ガラパゴス」
 人間をヒューマン・ウエアーと「物化」することに抵抗感を持つ読者は多いと思う。しかし筆者は、その様な意図は全く無い。ただソフト・ウエアーからハード・ウエアーと議論してきたので、説明の便宜上「ヒューマン・ウエアー」としただけである。

 さてヒューマン・ウエアーの「内型タラパゴス」の実例は、いろいろある。その代表例として日本人の「内向きメンタリティー」や「英語への抵抗感又は回避感」などである。前者の問題は、根が深く、本稿で簡単には議論できない。いずれ別章のどこかで議論するだろう。ここでは後者の問題を議論したい。しかしこの問題も根が深く、簡単には議論できない。だが音楽や映画のコンテンツやエンタテイメントと極めて強い相関関係を持つため紙面が許す限り議論したい。

 戦後の日本人は、英語を長年、学校で学んできた。現在、小学校から英語を学ぶことの是非が議論されている。海外駐在経験者、海外生活経験者、帰国子女などを除き、多くの日本人は、英語を「上手に話せない」、「聞きとれない」という現実に直面し、「英語コンプレックス」を密かに持っている。その結果、日本人の国際化や世界標準化を無意識に妨げ、国内行動を優先させる原因の一つになっている。また英語を流暢に操る人を羨ましがったり、反対に国粋主義が目覚めて軽蔑したりする。

 一般化していない変な表現もあるが、英哲学、英文学、英歴史などでない限り、英語は、「学問」ではない。国際的コミュニケーション手段でグローバル・スタンダードの典型である。しかしどの国の言語を学ぶかは、本来個人の自由裁量に属することである。

 日本では、英語を学問の様に扱われ、大学の最重要受験科目にされている。しかも「受験英語」という極めて特殊な領域が形成されている。全くもってナンセンス極まりない。筆者は、岐阜県理事時代に東京事務所で国際事業を遂行するため米国人のバリバリのキャリアー・ウーマンと英語が極めて堪能な日本人を秘書官として協力して貰っていた。その彼女達に大学受験の英語出題問題や英語受験参考書の英語問題を解かせた。彼女達は、いつも「この問題は変だ。よく分からない」、「こんな英語はビジネス社会や実社会で使われない」など多くの疑問を呈した。受験英語が「内型ガラパゴス」であることを証明した。

 実社会で本当に役に立つ学問をあまり教えない大学が、学問でもない英語で試験を行う。合格した学生は、実社会で役立たない英語のため余計な授業料を払って町の英語教室に通う。一方大学で学んだ学問が実社会であまり役立たないことを知っている企業は、大学新卒の新入社員に一から鍛え直すための社員教育をする。その余裕のない企業は、中途採用で人材を集める。日本の大学も「内型ガラパゴス」ではないだろうか。

 最近、日本で帰国子女が益々増えている。英語が受験科目になっていない大学は、殆どないため帰国子女は、大学受験で極めて有利な立場に立つ。受験英語への批判をかわすためか? 最近、有名大学の英語の入試問題は、長文になっている。非帰国子女は、長文の英語入試問題を短時間で読みこなすのは大変難しい。しかし帰国子女は、簡単に読みこなし、正確に解答することが出来る。この事実が多くの帰国子女の受験生は知っている。そのため受験勉強に於ける英語への時間と労力をそれほど割かず、他の受験科目の勉強に割くことが出来る。その結果、合格率は高くなる。

●日本の音楽業界の「内型ガラパゴス」
 日本人の英語の話し下手、聞き下手の問題は、以前から多くの政治家、学者、ジャーナリストなどによって盛んに議論されたテーマである。しかし一向に改善されない。一方近隣のアジア諸国の人々は、英語が上手である。それらの国が昔、欧米人の植民地であったため英語が上手なのだと云うことは理由にならない。彼らは「生きる糧として英語」を本気で学んでいるからである。

 英語嫌い、英語下手は、日本の映画の世界、音楽の世界、エンタテイメントの世界に深刻な暗い影を落とす。英語を話せない俳優、日常会話すらダメなポップス歌手やジャズ歌手、英語をネタにするが英語と無縁の芸能人などは、国際的舞台への進出のチャンスを失っている。一方「芸もなく」、「ユーモアーのセンスもなく」、「英語を流暢に話せる」だけで映画、音楽、TVの世界で大きな顔をして振る舞っている人物が極めて多い。

 更に民放の海外娯楽番組で英語も話せない、外国文化も知らない、教養のカケラも感じさせない「お笑い芸人」が傍若無人に海外の地で振舞う場面を見ると、「醜い」、「情けない」を通り越し、「怒り」を感じる。彼らは、「日本人の品位」を著しく傷つけている。本連載を読んだ民放の経営者や番組制作関係者に主張したい。TV電波は、国民の信託を得た「公器」である。あまりに酷いTV番組を放送することは、「放送法」に違反するだけでなく、「日本国民の基本的人権」を侵す可能性がある。劣悪な品位侵害や個人プライバシー侵害などのTV放送は、SEXの番組よりも遥かに世の中に害悪を及ぼす。これらを制限するとTV関係者は、憲法で保障されている「表現の自由」を侵害すると反論するだろう。そうなることは大変結構なことである。何故なら国民と法の前で堂々と討議する機会が生まれるからである。

 昔、TV海外旅行番組の「兼高かおる」氏は、流暢な英語を話した。そして彼女の「美しさ」と「凛」とした国際人の「風格」は、彼女に接する外国人をして「日本人の文化、伝統、そして品位の良さ」を知らしめていた。この様な素晴らしい人物は、現在の日本に実は以前に増して沢山いるのである。しかし現在の日本の映画、音楽、TVなどのエンタテイメントの業界人は、彼らの存在を知らないか、知っていても使おうとしない。セレブでも何でもない、只の成り金の人物や芸無しの、下品な、お笑いタレントばかりを使う。そしてその程度の番組制作で一般の視聴者が満足していると思い込んでいる。

「兼高かおる」氏 出典:12月の旅人のHP
「兼高かおる」氏
ジャーナリスト、日本旅行作家協会副会長

●日本の音楽
 日本の音楽産業は、映画産業と同様に、その内容も多岐に亘り、その裾野産業も広い。音楽産業の問題点、その解決策、音楽産業の過去、現在、将来の展望などを議論するテーマは山ほどある。しかし紙面の制約があるため、残念ながら、エンタテイメントの観点からのみ音楽産業のある部分を切り出して議論することにした。

 さて日本の音楽産業の2007年の売上(市場)規模は、1兆8千7百億円で米国に次いで世界第2位である。コンテンツの売上内容は、カラオケ39%、音楽ソフト・パッケージ30%、ラジオ放送12%、コンサート入場8%、携帯電話配信9%、インターネット配信3%である。

●横の音楽と縦の音楽
 音楽コンテンツの売上シエアーのナンバー・ワンのカラオケは、以前の日本に存在しなかった。携帯電話受配信による音楽も、インターネット配信による音楽も、誰も考え付かなかった。また想像もしなかった。昔は、周知の通り、エンタテイメントとしての音楽は、ラジオ放送、LPレコード、TV番組のマス・メディアによるモノとコンサート、演芸場、キャバレー、クラブなどのロケーション・ビジネスに於けるモノに限られていた。

 しかしエンタテイメントの観点から観ると、皮肉な現象が起きていることに気付く。それは、当時の方が今よりも遥かにエンタテイメント性が高く、人々の交流度が高かったということである。更に昔は、LPレコードも無く、コンサートの数も少なく、TVさえ存在しなかった。しかし多くの人々は、町に出て、友達や知人だけでなく、見知らぬ人々とも肩を組み、「歌声喫茶」、「飲み屋」、「バー」でアコーデオンやギターの生の伴奏で唄い、踊り、飲み、食べ、語らい、笑い、泣いたのである。未知との遭遇というか意外な交流を求めて、人と人とが身近に観て、その表情、息使い、肌の触れ合いを直接感じて、本物のエンタテイメントを享受していた。

 筆者が毎月ジャズ・トリオ+ワンの編成で出演しているジャズ・ライブ・ハウス(東京倶楽部など)では、お店の経営者と共にライブ・エンタテイメントを実践している。ジャズの生演奏だけでなく、ジャズ歌手が唄った後、休憩時間の一部を使って唄いたい客の伴奏もしている。筆者は、この伴奏スタイルをカラオケをもじって、「ナマオケ」と造語した。ナマオケは、カラオケと違って唄う人がテンポに乗れず、「食ったり」、「吐いたり」しても伴奏を伸び縮みさせて合わせる。そのため客の失敗を目立たぬ様に修復させ、唄い終えることを可能にする。そして見知らぬ他の客を含め、お店の全員から万雷の拍手を受ける。カラオケではあり得ない興奮を味わう。余談であるが、その興奮の体験でナマオケにハマって、筆者のバンドのフアンになる。お店も儲かるという。マス・メディアが多様化し、遊びの数も種類も増えた。しかし人々は、飽き足らず、本物のエンタテイメントを求めていることを筆者は、肌で実感している。

 近年になり、ソニーがウオークマンを開発した。そして気軽にどの場所に居ても音楽を聞ける状況が生み出されるや、爆発的に人気となり、日本はおろか世界中にそれが普及した。 その結果、さまざまな音楽が多くの人々により多く聞かれる様になった。しかし音楽は、一挙に「縦」に個人の中に侵入し、個人はそれを内に閉じ込め、音楽が「横」に拡散しなくなった。そして人々が何を聞いているのか外から分からなくなった。音楽を広く横に広げる機能を担ったのは主としてTV音楽番組やTVコマーシャル音楽であった。音楽が「個人化」したのである。しかしカラオケやコンサートは、「非個人化」の機能を担っているではないか思われるかもしれない。
1979年発売のソニー製ウオークマン 出典:HP・鳥肌音楽
1979年発売のソニー製
ウオークマン

 しかしその実態を見れば、やはり「個人化」している。ロック・コンサートやJポップスのコンサートで多くの人々は、歌手と共に唄い、手を振っている。しかし隣の見知らぬ人と手を握り、肩を組んで唄うという「横」の形で音楽を楽しんで唄っている訳ではない。あくまでロック歌手やJポップス歌手と「縦」の形で繋がり、声援と喝さいを送っているのである。またカラオケの店で誰かが唄っている時、他の人はあまり真剣に聞かない。自分が次に唄う曲を探している。これまた「個人化」している。この様に書くと音楽が個人化すること筆者が批判している様に思われるが、個人化が良くないことであると主張している訳ではない。人は、本来自由な存在であり、人それぞれ楽しみ方があってよい。
つづく
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