PMプロの知恵コーナー
先号   次号

「エンタテイメント論」(20)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :11月号

エンタテイメント論

第1部 エンタテイメント論の概要

14 音楽と音楽産業の実態
●コンテンツとは
 映画や音楽などを議論する時、多くの人々は、「コンテンツ(Content)」も併せて論じる。

 コンテンツとは、いったい何なのか? 簡単に答えられない人が多いのではないか? 先ず本来の意味から明らかにしてゆきたい。最初は、容器の中身や内容物を意味した。その後、書物や文書の趣旨、要旨、内容を示す様になった。しかし時代の変遷と共にその意味が拡大し、質的に変化した。

 そしてコンテンツは、映画や音楽などのメディア媒体に於ける文字、形、色、音、映像、その情報すべてを指す様になった。更には「遊び」、「教育」、「教養」などに係る知的生産物もコンテンツになった。コンテンツについてもっと深化した議論をすべきと思う。しかし本来のテーマがエンタテイメントであるので、これ以上の議論を一旦中断して先に進ませて欲しい。

●コンテンツとエンタテイメント
 コンテンツ論からエンタテイメント論に進む場合、どうしてもコンテンツとエンタテイメントは、どの様な関係にあるのかを明らかにせねばならない。気の短い読者のために、結論から先に言う。コンテンツは、エンタテイメントを具現化する手段となるモノの一つである。しかしエンタテイメントそのモノではない。これがよく誤解される。

 例えば、コンテンツの代表例である「映画」を自宅で、一人で観るのは「楽しみ」であり、コンテンツ本来の役割というか、その本来の機能を果たしている。しかし「一人で楽しむ限り」、エンタテイメントではない。何故ならコンテンツそれ自体ではエンタテイメントの役割というか、本来の機能を果たせないからである。誰かと「楽しむ」ことがエンタテイメントにとって必要不可欠だからである。

 しかし一人で楽しむコンテンツは、エンタテイメントにならないのか? どうもそうではない。何故なら誰かと一緒に楽しんでいる様な疑似体験をさせてくれるコンテンツならば別だかである。それは、映画に於いても、TV番組に於いても、音楽コンサートに於いても、観衆がその場面に登場しているモノである。例えば某噺家がTVを一人観ているあなただけを相手に落語を演じている場合とその噺家が演芸場で多くの観衆に向かって落語を演じている場面をあなたが観ている場合と全く異なった現象が起こる。前者の場合は、あまり面白くない。しかし後者の場合は、観衆の笑いを聞きながら自分も一緒に笑い、面白く感じるのである。TVを見ている自分はあくまで一人であるにかかわらず。
出典:浅草演芸ホールのHP
出典:浅草演芸ホールのHP

●エンタテイメントの本質
 エンタテイメントの本質は、エンカウンター(encounter=出会い、遭遇)の語源説が意味する様に「人と人の出会い」、「人と人との交流」をいう。「遊び」の場に存在する「人」とは生身の人間をいう。人間の役割を担ったマシン、お話しロボット、TV番組の画面に映る演芸ホールの観客などは、生身の人間ではないが、「疑似人間」としてそれなりのレベルでエンタテイメントの当事者になり得るのである。我々は疑似人間と出会い、交流しながら笑う。不思議と言えば不思議な現象を我々は体感できるのである。

 しかしやはり生身の人間同士の出会い、交流、接触が実現されてこそ、「遊び」の場でのエンタテイメントは最高の機能を発揮する。暗い映画館の中で初めてのデートの相手と観る映画は、素晴らしい興奮を生み出す。また恋人同士が手を握り合いながら観る「恋愛映画」も格別の感動を引き起こす。「怖いもの見たさ」で親の手を握りながら、時々目をつぶったり、思い切って目を開けて、怖々観る「お化け映画」は、強烈な恐怖を引き起こす。

 恋愛映画やお化け映画のコンテンツは、恋人の触れ合いや親子の手の温もりが欠かせない重要な構成要素となり、交流の手段となる。「人肌」、「人息」、「人声」を感じることが出来る「場」の裏付けがあって初めてコンテンツは、生き生きと活性化し、臨場化し、現実化する。観点を変えれば、コンテンツは、生身の人間の存在が介入しなければ「只の情報」となる。

●ガラパゴス諸島とガラパゴス化
 コンテンツとエンタテイメントについての議論は、取りあえず、以上で終わらせて、本題の「音楽と音楽産業」に入りたい。

 ガラパゴスとは、エクアドルのガラパゴス州又はガラパゴス諸島を指す。後者は、世界遺産に登録されている19の島で形成される諸島をいう。ガラパゴス諸島で独自の生物進化を遂げた動物・植物の様に、世界標準と異なる日本独自に進化発展をしている状態を「ガラパゴス化」と俗称されている。
  出典:ガラパゴス諸島(エクアドル政府観光局)  
出典:ガラパゴス諸島(エクアドル政府観光局) 出典:ガラパゴス諸島(エクアドル政府観光局) 出典:ガラパゴス諸島(エクアドル政府観光局)
出典:ガラパゴス諸島(エクアドル政府観光局)
 筆者は、何故、突然この様なコトを言い出したか。それには訳がある。

 今回の世界的大不況の煽りと日本人の最近の元気の無さから、ややピン・ボケになりかけているが、それでも一応日本は、海外諸国から「クール・ジャパン」と今も言われている。過去には「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と「当然としての評価」をされた時期もあった。クール・ジャパンとは、日本独自、独特で、日本的進化をしたモノやコトガラに対する各国の高い評価結果の表現である。言い換えれば、ガラパゴス化した結果でもある。それが独創的であれば、いずれ世界に広まり、適用される様になるだろう。これを便宜的に「外型ガラパゴス化」という。

 しかし現実はそうではなく、日本のある特定の需要家や市場などでしか適用されないガラパゴス化が日本で数多く起こっている。このことを前号まで議論した「映画産業の実態」の章とこれから始める「音楽産業の実態」の章で議論したい。これを便宜的に「内型ガラパゴス化」という。

 日本の内型ガラパゴス化は、コンテンツやエンタテイメントの様な「ソフト・ウエア」の世界だけでなく、コンテンツを処理し、送受信する「ハード・ウエア」、更にはソフト・ウエアとハード・ウエアを司る人間という「ヒューマン・ウエア」の世界でも起こっている。順を追って説明する。

●日本のソフト・ウエアの世界に於ける「内型ガラパゴス化」
 日本の映画が最近ヒットしている。しかし日本の映画会社や映画産業は、自ら世界市場を相手に発展していない。またまた厳しい言い方であるが、「本来の事業や産業の体」を成していない。そして「内型ガラパゴス化」の真っただ中に在る。これは、日本の音楽と音楽産業に於いても同様である。日本の多くの音楽会社や音楽産業は、世界市場を相手に進化し、発展していない。

 コンテンツを創造する人間は、当該国の言語、文化、習慣などの影響を強く受ける。従って創造されるコンテンツは、本質的には「内型ガラパゴス化」の結果である。しかし世界市場への発展を期した場合は、「外型ガラパゴス化」のコンテンツも同時に創造しておく必要がある。

 それを具体的に言えば、映画の世界では、試写会の時点から「英字字幕」を日本映画に刷りこんでおくことである。また日本だけでなく、世界でもヒットさせたい歌や既に大ヒットした歌には、作詞家が英語の歌詞を作り、歌手に1番は日本語で唄い、1番は英語で唄うなど世界の人々を意識した歌唱と演奏を試みてはどうだろう。

 日本には数多くの外国人が訪問し、滞在し、また住んでいる。上記の通り、試写会の段階から英字字幕の映画を用意しておれば、世界市場に「日本の映画」を売り出す前に、日本国内にいる外国人を相手に映画を売り出せるのである。これこそが「内なる国際化戦略」である。

 筆者は、外国人が日本のビデオ販売店やレンタル・ショップで日本語吹き替えでない外国映画を一生懸命探している姿や日本映画のビデオを手にして「英語字幕がついてるか」と下手な日本語で店員に聞いている姿を度々目撃している。

 筆者が英語字幕化を提案すると、日本の映画人は、必ず反論し、コスト、手間、質などの問題を指摘する。しかし彼らに言いたい。「反論するあなた達は、実際に字幕化作業を具体的にやった経験があるのですか」と言いたい。安くて高質度の字幕化は可能なのである。

 筆者は、新日本製鉄勤務時代、MCA社のユニバーサル・スタジオ・ツアー・プロジェクトを推進していた時、MCA社の英語のPR映画に日本語字幕を挿入する作業をしたことがある。にわか仕事であったので苦労したが、日本語字幕化は我々自身の手で行ったので安上がり。字数が少し多かったが、まあまあの出来であった。やれば出来るのである。

 その時、分かったことは、東南アジア諸国で日本と英語の両方に堪能で、学歴もあり、実務経験も豊かな、優れた人物が大勢いること、そして英字字幕化でも、日本語字幕化でも依頼することが容易で、完璧でなくても少々字数が多くても、信じられない安い値段で且つ短時間で可能であるということが分かった。現在は、当時と違って日本には欧米や東南アジアからの帰国子女が掃いて捨てるほどいる。彼らに依頼すれば、安くても喜んで協力してくれるだろう。何故なら映画の最後の字幕に自分の名前を掲載して貰えるからである。
つづく
ページトップに戻る