グローバルフォーラム
先号   次号

「グローバルPMへの窓」(第37回)
プロジェクトマネジメント魂 その3

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :8月号

 本年4月末の一夕、3月まで42年間勤務した総合エンジニアリング企業で、1980年代の前半から1995年までの課長職から部長職時代の部下だった方々35名が、横浜みなとみらい地区の、横浜港や高層ビルの夜景を満喫できるラウンジで筆者の退職ご苦労様会を開いてくれた。
 同社に勤務する現役社員だけでなく、転職した人、子育てに忙しいOGも含めて当時の部員50名のうちの35名が集まったことになり、なかには、25年ぶりの再会となった方もいた。
また、同社に勤務する筆者の三女もゲスト兼飲過ぎること必死の親父を家に連れてかえる役として参加した。はたして大いに盛り上がったので、筆者は「奇跡の夕べ」と呼んでいる。
 それくらい結束の強いグループであるが、当夜、昔をしのんで、私が何を言い、何をしたかを、かつての部下たちが思い思いに述べてくれた。
1)「K美さん(新入社員)このスライドの左1ミリ上にずれているよ、と言われたが、田中さん自身は文字シールでスライドを作ると汚くて、とても使えなかった。」
   ・・今の私はきわめてアバウトで、協会の講習会で講師のスライドに誤字があるとか、お叱りのコメントを戴くと、日本人はなんで細かいのか、と思う(すみません)くらいでそのような事を言っていたとは信じられない。
2)「ともかく一生懸命で、新入社員の私(一般職の女性)に、土日でこれを読んでおけ(英文のRFP)、でしたからね。でも、それがあって今でも英語を使って仕事ができているのですから。」
  ・・人材流動化時代の到来は必至と思っていたので、部下に食い扶持を得る術を覚えさせるのに必死であった。
3)「課長になって皆を集めて早速訓示を行い、部長が隣に座っているのに、言ったことが、これからは会社が皆さんの一生を面倒見られる時代でなくなった。当社を離れても生きていけるように、今日から一生懸命君たち(になっちゃた)を鍛える。それは会社のためでなく、君たちのためだ。」
   ・・実際に高給で請われて、あるいはより高いキャリアを求めて転職した部下が6名ほどいた。お前、考え直せと説得したら、そもそも自分で身を立てろといったのは田中さんだ、と言われた。
4)「一般職である私が、なんで総合職の後輩の男の子の指導員をやって、給料がこうも違うのですか、と噛み付いたら、そうだね、格差の無い会社に転職したら、と言われました。」
   ・・課長の頃は、横浜近辺から三浦半島にかけての4大卒で大学の成績優/Aが40前後という女子社員主体で海外プロジェクトの支援業務を行っていた。しかし、何名かはやはり転職していった。
5)「部長になった頃は、ストレスが顔に表れていて、気の毒なくらいでした。」
   ・・英語の文書しか書いたことがなく、超スペシャリストから4つの全く異なる業務を統括する超ドメスティックなジェネラルマネジャーに一夜にして変わってしまったであるから、生きた心地がしなかった。自分でもよく変身できた、と思っている。
6)「文書をずいぶん直された。でも、自分が田中さんの立場(部長)になって、同じことをやっている。」
   ・・自分でも、きちんとした日本語の文書を書きだしたのは部長になってからであるが、コミュニケーション自体は新入社員の頃から修練を積んでいたので、発信がもたらすネガティブあるいは逆にいえばポジティブインパクトに関して厳しく指導を行ったつもりだ。

 部長職の間に担当したことは、経営の下働きとして事業本部間の調整業務、生産管理業務、社外マンパワー総合管理、プロジェクトマネジメント技術業務の4つである。このように、面白い業務が一つの部に詰まっていたのであるから、私も部員(法文系出身8割、理工系出身2割)も大いに鍛えられた。たとえば、
  • 企業価値である “For the Project”の行動を徹底的に身につけた。つまりプロジェクトマネジャーに、プロジェクトチームに徹底的に尽くしながらプロジェクト・コーポレート業務への協力を引き出す技を身につけて、Win-Winのサイクルを廻すこと。
  • 純粋コーポレート管理系と異なり、プロジェクト運営の第一線に近い部署であるので、彼らと共に歩みながら、一声あれば、プロジェクト部隊に即入っていけるようにわが身を磨いた。
  • PM技術業務は、PMO機能の一部でもあり、会社のPM能力の全般的な向上に貢献する機会があり、また、プロジェクトコントロールマネジャーや、プロジェクトICTマネジャーの道も即開かれており、モチベーションが高く維持することができた。
  • PM技術業務を核に、コーポレート系でありながら、外販ビジネスを行う機会もあり、最大の案件としては、東京都の臨海副都心開発事業の総合プロジェクトマネジメント業務(お施主側のPM)を主務部として遂行した。これは我が国の官工事で初めての大型PMコンサル業務である。
  • 課長時代に13名の所帯でTOEICの平均点780点(900点以上3名)の英語の強者揃いの伝統を受け継ぎ、部のTOEICの平均点は、海外プロジェクトをやっているライン部門よりも高かった。グローバル時代に耐えられる集団でもあった。
私がやっていた部は、その後いくつかの再編を経て、現在はかつての機能がいくつかの部門かに分散配置しているが、当時の部下達は大活躍してくれている。
  • 現職・元職含めて、人事部長、情報技術(ICT統括)部長2名、アジア太平洋営業部長、中東営業部長、海外営業事務所長2名、プロジェクト業務部長、プロジェクトマネジャー3名、海外子会社キーパーソン2名、等々
  • 転職者・OGでは、A新聞の英字紙編集長、大学教師(女性)国内・海外1名づつ、プロの翻訳者兼ボランティア団体代表(女性)、英語教室主宰(女性)
 「奇跡の夕べ」で、皆さんは、筆者が今プロジェクトマネジメント協会の理事長をやっているということを大変喜んでくれた。いわく、「我々は、田中さんにPM魂だ、PM魂だ」とずいぶん色々なことをやらされたが、その田中さんが、今PM協会のヘッドであるのであるから、我々は一応まともな人に鍛えられたということですかね。」 ♥♥♥

ページトップに戻る