PMプロの知恵コーナー
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ダブリンの風(71) 「畳の上の水練」

高根 宏士:5月号

 「畳の上の水練」という言葉がある。水の中ではなく、畳の上で「泳ぐ」ことを学ぶことを云う。畳の上でどんなに泳ぐことを教わっても、水の中で泳ぐことはできない。転じて物事を習得するのに、その現場や対象を離れて、そこから雑に抽出された情報だけでわかったつもりになり、実際には何もできないことを指している。理屈だけで現実には動けない意味である。
 最近これに似た話を聞いた。ある男がいた。彼はクレバーな能力を持っており、数ある情報を整理し、分析することに長けていた。SEとしてもその能力は際立っているとの評判であった。その彼が、あるスポーツを始めた。彼一流のやり方で必死に上達を心がけた。彼はいつもの定石手順に従い、先ず情報の収集をし、それを分析し、それに基づいた方針を立て、訓練のスケジュールを決めようとした。先ずそのスポーツに関する書籍を200冊読破した。そしてその中にある情報を整理し、上達法を作った。いわゆるデータマイニングをしたことになる。それに基づき練習をした。結果は惨憺たるものであった。彼の結論は「本の著作者たちは嘘を書いている。本当のことを書いて、読んだ人がその通りに上達してしまうと彼らの商売が無くなってしまうからだ」ということである。そして200冊は廃却処分にしてしまった。彼の気持は何となくわかる。彼流に考えれば、書いてある通りにやったけれど、上手くならない、だから書いてあることは正しくないという結論が論理的に導かれる。
 この例はどう解釈したらよいであろうか。ひとつの解釈を述べる。言葉になった情報とはどんなに正確に表現したとしても、現実を100%正しく表現することは不可能である。スポーツの本質は体を動かすことである。200冊の著者たちはそれぞれ、そのスポーツを経験し、その道のプロか、アマチュアでもトップに立った人達である。そして彼らが他人を惑わせるために嘘を書くことはおそらくない。彼らは自分の経験から良いと思ったことを書いているはずである。ところが体の動きを言葉にした途端に、その言葉は体の動きを全て表現できているわけではない。多分表現できることは1%程度であり、99%は除かれているであろう。言葉は体の動きを大雑把に、そして平均的に表現しているだけである。そして実際の体の動きはその言葉で言われていることから揺らぎがある。そして他者に伝える場合、他者との体格、体力にずれがある。したがって言葉に表現されたことを体得するためには、体の動きと言葉との間にある揺らぎと二者間における体力、体格、経験の違いを認識して、著者が言っていることを自分なりに解釈しなおし、それを実践し、納得するまで繰り返すことが必要である。
 これは野中郁次郎先生が提示している知識変化モードとしても考えられるのではないか。ある個人に一つのノウハウなり、感覚ができたとする。これが暗黙知である。これを集団に展開するために形式知化(言葉等による表現)する。これによりそのノウハウは伝わるが、形式知のままではその本質は忘れられ、機械的、形骸化した手順やプロセスが残るだけである。形式知を受け取った側が自分の体で経験し、その中から体が実感したとき(受け取る側の暗黙知)にはじめて発信側の内容が同じレベルで解釈され、受け取られることになるのではないか。形式知を形式知のまま解釈したつもりになったり、そのまま機械的に適用して足れりとするのは、ある意味では99%理解できていないことになる。
 これはPMの世界でもいえるであろう。もちろんEVMにおけるEACやCPMにおけるフロートの計算などは、計算式に則って計算するだけでよい。これは誰でもできる。しかしこれらが必要になった背景、これらによりプロジェクトの何を見通すか、その限界は何か、その上でどのような場面で活用するかは、プロジェクトの現場からの体感を持っていなければできないであろう。ましてPMの知識体系全体については形式知化された体系のバックグラウンド(コンテキスト)を実感することが重要であろう。それらを踏まえず単に形式知化されたPM手法をかざすだけでは、それはサロンのディスカッションになってしまい、現実には役に立たなくなるであろう。

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