PMプロの知恵コーナー
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ダブリンの風(72) 「論理の前」

高根 宏士:6月号

  今日(5月24日)は日曜日である。NHKの大河ドラマ「天地人」が放映された。上杉家の家老だった直江兼次が主人公である。今日の主題は直江兼次が石田光成と肝胆合い照らす関係になる場面である。その中で光成が兼次に対して「お前は阿呆ではない。ただし阿呆になれる心を持つ男だ。俺はその阿呆になれない。だからお前は人に好かれるが、俺は好かれない」といっている。これは人が人を活用できるかどうかのポイントを突いている。
 同じような例はSEの世界にもある。非常に優秀なSEがいた。彼が始めてSEの世界に飛び込んだ時、彼の上司から様々な課題を与えられたが、情報収集と論理的分析の素晴らしさでそれらの課題を見事に解決していった。彼はまたバイタリティと粘りを持っていた。そのため上司の覚えも目出度く、査定は常にA(時にS)だった。10数年ほど経って彼がいわゆる課長以上の職位についたとき、それまで優秀だった彼の評判が落ちてきた。
 その頃でも、彼は頭がいいと思われていたし、誰も彼を論破することはできなかった。しかし上司(前の上司とは別人)からは「頭が固い」と思われ、部下からは「我々の話を聞いてくれない」と思われ、外注からは厳しすぎると毛嫌いされた。最後まで従っていた部下も「もうサポートしきれない」とこぼすようになっていた。そして子会社へ転勤させられた。
 彼のどこがいけなかったのか。彼の論理は見事で隙がなく、それを周りの人々が受け入れないのを彼はおかしいと感じた。皆が阿呆だと思った。
 彼が、気がつかなかったことは「論理で人間を納得させることは不可能に近い」ということである。一つの例として

 A→B→C→……→X→Y→Z

を考えてみる。「A→B」とは「AならばB」である。この例では結論として「AならばZ」が導かれる。彼はZの結論を導くためにBからYまでの中間点を作ることに長けていた。彼が、頭が良いといわれたのはこれが理由である。
 しかしこの展開の仕方で他が納得しないのは何故なのか。BからZまでの展開には問題ない。論理に対する多少のリテラシーを持っている人ならばだれでも認める。問題は最初の「A→B」のAである。B以下が論理的帰結なのに対してAはそうではない。これは仮説である。個人的見解である。だからこれは個人によって違う。彼は「A」としているが、他の人は「甲」とするかもしれないし、別の人は「一」とするかもしれない。「甲→乙」、「一→二」となりBは出てこない。そして最終的にZにならない。他の人を納得させるには論理でなく、仮説であるAを認めてもらわなければならない。そのためには相手の仮説である甲や一を理解できるセンス、戦国時代風に言えば度量を持っていなければならない。他の人が持っている仮説をどこまで理解できるか、自分が持っている仮説Aが多くの人に受け入れられるかが人とのコミュニケーションを成功させる原点ではないだろうか。それなくして単なるプレゼンテーションや説得の技術やツールをどんなに習得しても本質的なコミュニケーションはできないであろう。
 どの仮説を選ぶかという点に、その人が生まれてから現在まで生きてきたすべてのことが関係してくる。数学者の藤原正彦は、多くの人が納得できる高さと広さと温かさを持っている仮説を選択できるのは「高次の情緒(美しいものに感動する力、他人の不幸に対する敏感さ、懐かしさ、無常観)」を持つことによってであるといっている。そして論理的思考が得意で、情緒が充分に発達していない人は最初の出発点Aの選択に失敗すると極めて危険な存在になるという。現代の様々なきしみはこのAに対するお互いの独善から来ているのではなかろうか。

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