ダブリンの風(69) 「重複と無駄」
高根 宏士:3月号
ビジネスの世界では無駄は嫌われる。「金の無駄」、「時間の無駄」、「人の無駄」というように効率や生産性を云々するところでは無駄は蛇蝎である。
「重複」は通常無駄の最たるもの、効率、生産性の大敵と考えられている。一つで済むものを同じことに対して二人で対応したり、同じものを二つ以上用意したりするからである。しかし「重複」を無駄だと考えることは常に正しいであろうか
重複の例である、システムにおける「二重化」といった場合、それは高信頼性が要求される場合に伝統的にとられてきた対策である。40年ほど前、私が始めてたずさわったシステム開発で4台のコンピュータをデュアルシステムとデュプレックスシステムで連結した経験がある。
ソフト開発においてアジャイルといわれる開発手法がある。その中で有名なエクストリームプログラミングにおける「ペアプログラミング」はひとつのプログラムを二人で一緒にコーディングすることである。コーディングする時間、または作業量は倍になる。一人でコーディングできるものを何故二人でするのか。このメリットは瞬間的な時間や当面見える作業の効率化ではなく、そのソフトウエアが存続している期間における組織的対応能力、他のソフトウエアを作るための組織的ノウハウを蓄積すること、お互いの共通認識を作ることによる組織としての相乗効果を狙ったものである。
以前には営業の業務について、ベテランと新人が組になって活動することはよく見られた。一人で済むことを二人でやることであり、一見したところ二重に人を掛けているように見える。しかしこの過程で新人はベテランの営業ノウハウや客先での対応を見て自分なりの営業センスを磨いていった。そして一人だけでは到達できなかったであろうレベルまで到達し、次の新人に、より多くのノウハウを伝えてきた。それが各企業の潜在的力になってきた。最近は二人で営業するより、分担して営業したほうが倍の活動ができるということで単独で回ることも多いと聞いている。そこでは営業のレベルは、各人が「0」のレベルから、個人として習得したレベルまでしかならない。またその個人が辞めてしまった場合、組織としてのノウハウは蓄積されない。個人のノウハウが存在するだけである。組織として発展するノウハウはできない。
人類が他の生物よりも進化し、大きな知識を蓄えられるようになったのにはいろいろな要因が複雑に絡み合っていると考えられるが、大きな要因のひとつに「3世代が共存できるだけ寿命が延びた」ことが挙げられるだろう。人類が生き延びるためには母親が娘を産んで、その娘がまた娘を埋めるだけの寿命があれば良い。すなわち2世代が共存できれば人類は絶滅しない。しかしそこでは子育てのノウハウは貯まらない。子供を育てることについて、親は常に「0」からスタートし、試行錯誤を繰り返してやっとノウハウがたまった頃には子供を埋めなくなってしまうし、娘が子を産む頃にはこの世にはいない。ところが「3世代が共存できるだけの寿命」を持つと、子育ての経験がある祖母がいて、母親になった娘に、その経験を伝え、母親はその知識の上に自分の経験を加えてその娘にまた伝達することになり、蓄積されるノウハウや知識は幾何級数的に増えてくる。このようなサイクルが人類の文化や文明の発達の大きな要因になったのではないだろうか。
現在はビジネス的には効率を求めて「重複」を排除しようとし、生活のレベルでもせっかくの長寿社会のメリットを生かさず単に社会負担としか考えない風潮は人類の文化の衰退や文明の崩壊をきたすのではなかろうか。もっと自然的な世代間の連携を醸成する風土が必要ではなかろうか。
ビジネスの世界で見ると、生産性とか、効率とか成果とかを評価する基準をシンプルに「金」だけとし、これまで持っていたいろいろな「含み資産を金に換算するスピード比べ」をやっていることが活動をしていると思われている。
本質的な意味での「重複」は継続、発展のインフラである。「重複」ということは生態系において我々が潜在的に持っている最高の知恵かもしれない。
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