図書紹介
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ドラッカー20世紀を生きて(私の履歴書)
(ピーター・ドラッカー著、牧野洋訳・解説、日本経済新聞社発行、2005年08月08日、第1版1刷、201ページ、1,400+税)

金子 雄二 ((有)フローラワールド):2月号

今回紹介の本は、ドラッカー氏の本である。氏が亡くなられたのは2005年11月なので、3年以上も時間が経っている。ここで氏の著書を取り上げたのは、今回のものを入れて5冊目ある。「明日を支配するもの」(2001年8月号)から「プロフェッショナルの条件」、「マネジメント(エッセンシャル版)」、「ネクスト・ソサェティ」、「ドラッカー365の金言」(2006年3月号)となっている。もう10年近く続くこの図書紹介では、極力偏らないでプロジェクトマネジメント(PM)に関係する本を取り上げている。その中で同じ著者で5冊というのは、氏のものだけである。その理由は、筆者の個人的な好みもあるが、それ以上に経営、ビジネス、マネジメント等々に関する洞察力と内容の広さから多くの経営者やビジネスマンに読まれているからである。現在、アマゾンで氏の著書を検索すると48冊ある。どの本もビジネスマンならどこかで目にしたか、読んだことのある馴染みあるものばかりである。この本は、日経新聞の人気コラム「私の履歴書」(2005年2月から27回連載)で書かれたものを本として纏めたものである。副題の通り、氏の生い立ちからマネジメント、コンサタント、学問等社会との関わりを時系列的に追っている。この本が出版されて4年が経つが、今までの著書とは違った新たな発見がある。それが「何であるか」を紐解いてみたい。

この題名にある通り、氏は1909年にウィーンに生れて亡くなられた2005年までの20世紀を生き抜かれた。現在、世界経済は、昨年アメリカのサブプライム・ローン破綻から端を発した深刻な不況が問題となっている。そこで「マネジメントの父」「経営コンサルタントの祖」と言われたドラッカー氏なら、どんな判断をしたであろうかと考えながらこの本を読み直していた。すると2009年正月明けに「大不況、政府・企業がなすべきことは、ドラッカーなら」という新聞記事が目に付いた。語っている人は、日本での分身とまで言われた上田惇生氏である。それによると「企業の組織は、全て人と社会をよりよいものにするために存在する」というのがドラッカー経営思想の真髄であると述べている。現在新聞を賑わしている「派遣労働者の切り捨て」は問題外である。先にここで紹介した「ネクスト・ソサェティ」(2002年7月号)では、『人こそビジネスの源泉である』と書いている。「人」には、2面がある。ビジネスの対象として人材派遣や雇用代行として活用する場合と、知識労働者を「自社資本」として育成する場合がある。日本企業の競争力の強みは、人を資本として大事にして成長してきた背景があると、ドラッカーは早くから見抜いていた。諺にある「賢者は歴史に学び、凡人は経験に学ぶ」を参考に、この本から多くを学んでみたい。

ドラッカーと20世紀     ―― 第一次世界大戦からの歴史の証人 ――
先にも少し触れたがドラッカーは、1909年にオーストリアの首都ウィーンに生れた。父親がオーストリア政府の高官(外国貿易省長官)であったこともあり、5年後に勃発した第一次世界大戦(オーストリア皇太子が暗殺された時は、家族旅行中で急遽中止になったという)を身近に体験している。当時自宅でのホームパーティ等では、各界の著名人と出会っていることを紹介している。ヨーゼフ・シュンペーター(経済学者)、トーマス・マサリク(初代チェコスロバキア大統領:現在のチェコ共和国とスロバキア共和国)、ジークムント・フロイト(精神分析の父)や、トーマス・マン(ノーベル賞受賞の大作家)、更に、マリア・ミューラー(ウィーンの大女優)等がいた。しかし、これらの著名人は、父親の友人でありドラッカー自身との付き合いではない。この本は履歴書だから、ドラッカー自身が書いているが、訳者である牧野氏(日経新聞編集委員、この私の履歴書を新聞連載させ、著書として纏めた)が毎回解説として、ドラッカーの交友関係や補足資料を紐解いている。その解説文が本文を盛り上げていて興味深い内容で、歴史の背景を補足したり、取材裏話であったりして面白い。面白いだけなく取材に際して事前調査したことや、インタビュー中に起きたことを幾つも紹介している。引退に関する質問では、忙しいスケジュール表を見せてユーモアで答えたりしている。奥さんについては語らないと事前宣言していたが、中盤で「人生最高の瞬間」と妻ドリスとの出会いを語るドラッカーの人間味に触れている。

ドラッカーは、ドイツの新聞社に記者として就職した。20世紀のドイツと言えば、第二次世界大戦とナチスである。ここでもヒトラー党首やゲッペルス宣伝相とも何度も取材したことが紹介されている。その中でファシズムの危険性を感じそれを訴えたが、マスコミ全体の力とはならなかったことを語っている。ナチズムを逃れてロンドンに移住して、保険会社の証券アナリストとなった。その間、「ケインズ経済学」の生みの親であるジョン・メナード・ケインズの講義を聞くためにケンブリッジ大学に通った。こうして経済学を学びながら、新聞記者の経験から人間や社会の動きに関心を持つようになったという。このロンドン時代に、以前フランクフルト大学時代に出会ったドリスとの劇的な再会があり、結婚するのだが、時にドラッカー27歳である。その後ニューヨークに移り、英国新聞社の海外特派員としての活動を開始し、暫くしてワシントンポスト紙のフリーランスの記者をし、ウォールストリート・ジャーナルのコラムニストを20年間務める足掛かりを築いた。そこでも多くの歴史上の人物と遭遇している。ドラッカーの処女作「経済人の終わり」(1939年出版)では、英国のウインストン・チャーチル(首相就任の1年前)が英国タイムズ紙に書評を書いている。その結果、この本は英米でベストセラーとなった。文筆家として名声を上げる傍ら、大学での非常勤講師(経済学、統計学)に就任している。その当時、カナダの著名メディア研究家のマーシャル・マクルーハンとも親交を深めている。この時期日本が真珠湾攻撃を仕掛けて太平洋戦争が勃発している。ドラッカーは、こうして第一世界大戦から第二次世界大戦を背景に、多くの人々と交わりながら歴史を生き抜いてきた。

ドラッカーとマネジメント      ―― 経営コンサルタントから教鞭まで ――
ドラッカーと言えば「マネジメントの父」である。その発端は、太平洋戦争でドラッカーが陸軍省のコンサルタントとして、軍需品を生産する会社の経営を立て直す仕事をしてからである。この仕事から生産現場の品質管理(Quality Control)の必要性を痛感して、統計学の専門家であるエドワード・デミングを引き抜いた。以来、今日までデミングは品質管理(QC)の大家である。その後、IBMやGM(General Motors)のコンサルタントもやっている。IBMは1914年創業の会社で、現在世界中で知らない人はいないと言っても過言でない位有名である。そのIBMがInternational Business Machines Corporationの略称であることを知っている人は少ないかも知れない。創業当初は、事務処理用機械を販売していた会社である。日本IBMは、1937年に現地法人化している。我々がIBMを知るようになったのは、1960年代にパンチドカード・システムとして事務処理を機械化するようなってからである。現在では、それらを知るには博物館でも行かなければ分からない。話が横道にそれたが、当時コンサルタントをしたIBMから多くのことを学んだと、ドラッカーは語っている。その中に「企業の最も重要な資源は知識労働者である」とか「労働力はコストでなく資源である」と言い、「1930年代の大恐慌でも倒産しなかったのは、社員の雇用を維持したことが最大の理由である」と訳者が補足している。この本は、4年前に書かれているが、現在のアメリカを始めとする経済危機で、GMのみなならず日本のトヨタも苦しんでいる。そしてそのしわ寄せを労働者に被せている。ドラッカーが生存していたら、現在の経済状況から公的援助を受けなければならない経営について何と言うであろうか。

ドラッカーはコンサルタントをする傍ら、著書「会社という概念」(1946年)を刊行した。この本は、色々な意味で話題を呼んだと書いている。当時ベストセラーとなったが、GMからは内容に関する多くの批判が出された。それは「分権制(現在の事業部制)」のあり方に関するものだ。その後解決したが、この分権制の考え方を同業他社のフォード社が取り入れている。更に、学会での「マネジメント(経営)」の批判もあったと書いている。この時代は、マネジメントという言葉が一般的でなく、学問として確立されていなかったのだ。米国マネジメント協会は1923年から存続していた。しかし現在のマネジメントと同じ意味で使われるようになったのは1930年代になってからだという。その後ドラッカーは著書「現代の経営」(1954年)でマネジメントの体系化を成し遂げた。こうして経営から学問への道に入ったのは、1949年のニューヨーク大学の教授に就任してからである。担当科目は、当然マネジメント科である。訳者の解説によると、その当時マネジメントを教える大学は、世界で3校だけ(最初は、ハーバード大)とのことである。ドラッカーの教授歴は、亡くなるまで続くが、ニューヨーク大に20年強、その後南カリフォルニアのクレアモント大学大学院でマネジメントの教鞭を最後まで執られた。その合間に「新しい社会と新しい経営」(1950年)、「創造する経営者」(1964年)、「断絶の時代」(1969年)、「マネジメント」(1973年)等、冒頭に紹介した多くの著書を出されている。まさに「マネジメントの父」である。

ドラッカーと日本   ―― 日本画と日本的経営に着目 ――
この本を読んでドラッカーと日本の関係で新たな発見をした。その一つはロンドン時代というから、1935年前後である。そこで日本人バンカーと知り合ったことと、日本画に出会ったことが紹介されている。ドラッカーが25歳の頃である。日本画に関しては、その後も収集を続けていたらしく、「以来、ずっと日本画“中毒”だ」と書いている。ドラッカーの初来日は1959年だが、その訪日を引き受けたのは「日本画を見たかったから」と本音を披露している位である。更に驚くべきことに、1970年代にクレアモント大学で5年間「日本画の授業をした」という。その教材は、自分がコレクションした日本画を使ったのだと訳者がその詳細をインタビューから聞き出している。今までドラッカーに関する本を多く読んできたが、日本画に関する記述は無かったと記憶する。それ程、日本に惹かれていたのかも知れない。更に付け加えれば、初訪日の印象から日本画同様に、日本という国に夢中になったことも書いている。当時から日本の大きな潜在力を確信していたという。実際は、初来日で会った多くの経営者の資質に将来性を見たのかも知れない。その中に、ソニーの盛田昭夫氏と立石電機(現オムロン)の立石一真氏がいて、当時日本でもそれ程知られていなかった頃の創業社長である。それと日本電気の小林宏治氏であると書いている。この3氏に共通していることは、その後日本を代表するグローバル企業の社長として活躍されている。その将来性を一目で見抜いたドラッカーの先見性は、確かなものである。そして日本が高度成長時代に入る前に「日本は経済大国になる」と予言して論文に残している。この本を読み終え、改めてドラッカーの偉大さ「マネジメントの父」に触れたように感じる。

ドラッカーと日本の関係で、この本には書かれていない幾つかのことを付加してみたい。一つは、ドラッカー学会である。この学会は、ドラッカーが亡くなられた2005年11月に設立されている。その目的は、ドラッカー思想や経営理論の学術的、実践的に交流し、進化・継続・発展を図ると規約に書いてある。代表者は、日本でのドラッカーの本を一貫して翻訳され40年以上も親交のあった、上田惇生氏である。現在では4000名以上の会員を擁して精力的に活動を続けている。ご興味のある方は  ホームページ をご覧下さい。もう一つは、ドラッカー塾である。この私塾は、ドラッカーの本を日本で多く出版しているダイヤモンド社が主催しているものだ。トップマネジメントコース(経営者向けの1年間の実践サポート)、マネジメント基本コース(マネジメント理論と実践トレーニングで、3ヶ月の研修で189万円)等がある。他にリーダシップ研修やeラーニングコース(インターネットでドラッカーのマネジメントを学ぶ講座、10コースで89千円)がある。こうして現在でも、ドラッカーの経営思想が脈々と日本で引き継がれている。(以上)
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