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「エンタテイメント論」(9)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :12月号

エンタテイメント論

第1部 エンタテイメント論の概要
8 昔と今の岐阜・柳ケ瀬

●美川憲一「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒットした時代
>美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒットしていた時代、筆者は、富士製鉄本社から同社の子会社・東海製鐵(株)に出向していた。同社は後の新日本製鐵(株)名古屋製鉄所である。
>富士製鉄は、社運を賭けて、同社の知多半島の現在の太田市の埋め立て地に世界最新の銑鋼一貫製鐵所の建設を進めた。筆者は、同社経理部に属し、同製鐵所の最初の第1高炉建設のための日々の仕事に忙殺されていた。
>広大な土地で膨大な設備を持つ製鉄所の複雑な原価管理&計算、財務管理、予算管理などの「業務システム」の構築と「コンピューター・システム」の導入研究を25歳の若造の筆者に任されていた。そして女子社員を除き、自分より年上の部下ばかりを持つ係長になったのも29歳であったと記憶している。現在の日本の多くの会社では考えられない「若者」が活躍できた時代であった。そして筆者は、毎月100時間以上の残業をさせられていた。

昔の岐阜柳ヶ瀬(1)
昔の岐阜柳ヶ瀬(1)

>しかし休みや残業の無い日は結構遊び回っていた。そして同製鐵所の近くの社員寮から親しい友人達とタクシーに乗り、名古屋市内を通り抜け、岐阜柳ヶ瀬まで遊びに何度も行った。
>長距離のタクシー代をワリカンで負担しても、岐阜柳ヶ瀬の方が名古屋で遊ぶより遙かに安く、楽しく、満足を得られたからである。
>岐阜柳ヶ瀬は、地元繊維業の活況で潤い、そのお陰でキャバレー、クラブ、バー、芸者遊び、パチンコ、麻雀などあらゆる種類の「遊びのビジネス」が成立していた。そして繁栄した。美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」が誕生し、ヒットする必然性は十分にあった。

昔の岐阜柳ヶ瀬(2)
昔の岐阜柳ヶ瀬(2)
●今の岐阜柳ヶ瀬の現状と対策
>今の岐阜柳ヶ瀬は、往時の面影は全くない。人通りも少なく、シャッターの降りた店が毎年増加の一途を辿っている。しかも以前あった百貨店まで閉じられた。町は廃れる一方である。

現在の岐阜・柳ヶ瀬
現在の岐阜・柳ヶ瀬

>しかし地元の商店街の人々は、手をこまねいて、諦めた訳ではなく、今も頑張っている。
>岐阜市は、柳ケ瀬のにぎわいを取り戻すため、各商店街と連携し、それぞれの“通り”の魅力を高める取り組みを始めている。
>また各店舗が個別に集客に努めるだけでなく、“通り”ごとにテーマを設定し、外壁や屋外広告など一帯の景観に統一感が出るように協力している。そして景観統一計画を「中心市街地活性化基本計画」にも盛り込んでいる。
>その他に、ストリート・ミュージシャンのライブ・イベント、路上での音楽ライブ・イベント、おもしろイベント、モーターフェスティバル、選りすぐり車両展示会、地元キッズ・ダンス、クラシックカーやスーパーカーとモデル競演撮影会、レーシングカーの乗車体験、クイズラリーなど様々なイベントが開催されている。

現在の岐阜・柳ヶ瀬のイベント

現在の岐阜・柳ヶ瀬のイベント
現在の岐阜・柳ヶ瀬のイベント

>しかしいずれもがイベントによる街活性化運動である。イベント開催中は、集客が実現する。しかし終われば「宴の後」の状態になる。果たしてどうすればよいのか?別章で答える。

●JR岐阜駅高架下の大規模ショッピング・モール・プロジェクト
>筆者は、(株)セガのテーマパーク事業部長として全国に「ジョイポリス」を企画・開発していた。そのためNHKや民放のTV番組に出演したり、新聞、経済誌などに度々登場させられた。
>その出演や登場で筆者を知った梶原前岐阜県知事は、岐阜柳ヶ瀬とJR岐阜駅にセガ社の「ジョイポリス」を誘致するため、筆者を岐阜に招いた。今から約15年前のことである。
>筆者に会った梶原前知事は、その場で筆者をスカウトした。紆余曲折の末、地方公務員試験を経て岐阜県理事に就任した。昔の柳ヶ瀬で何度も遊んでいた筆者が岐阜県理事になって柳ヶ瀬とJR岐阜駅周辺の活性化に取り組むとは我ながら信じられないことであった。
>筆者は、岐阜県理事に着任と同時に、柳ヶ瀬とJR岐阜駅周辺の活性化に取り組んだ。そして3階高架構造のJR岐阜駅のプラットフォームの直下の3階が駐車場に使えることに気付いた。そこに数千台の駐車が可能と分かったので、直ちにマイカルのトップに接触した。
>同社は、「郊外店舗並の駐車場を設置可能なJR駅は、日本中探してもどこにもない」と評価し、本プロジェクトの実現を目指して検討することを約束した。その結果、セガも、幾つかのホテルも、同様の約束をした。そして当該企業を中心に実現に向けて動き出した。
>しかしある事情からこの大規模開発プロジェクトは崩壊した。ある事情とは何か? それは諸般の事情から現時点ではその理由を開示できない。
>もし本プロジェクトが実現していたら、岐阜駅周辺の様相は一変していたであろう。また柳ヶ瀬の活性化に好影響を与えていたであろう。この崩壊は、地元市民だけでなく、岐阜県民にとっても大変不幸なことであった。

●岐阜羽島南側の大規模ショッピング・モール・プロジェクト
>筆者は、東海道新幹線・羽島駅の南側の約30数万坪の田畑に、数万台の大駐車場を持つ「大規模ショッピング・モール」を企画した。そして米国某モール会社と交渉して、その実現に取り組んだ。このモールには、セガのジョイポリスの進出はもとより、米国産の物販、飲食、米国流の各種のエンタテイメントが直接導入される予定であった。
>しかしこの大規模プロジェクトもある事情から崩壊した。ある事情とは何か? 上記と同様、諸般の事情から現時点ではその理由を開示できない。
>もし本プロジェクトが実現していたら、岐阜県の経済に多大な好影響を与えるだけでなく、経済的にも、物理的にも閉塞性のある岐阜市を大きく発展させる契機になったであろう。この崩壊は、岐阜県民にとっても大変不幸なことであった。

●岐阜羽島南側のワーナー映画ランド・プロジェクト
>その後、筆者は、どうしても羽島駅南側開発プロジェクトを諦めたくないので、米国タイム・ワーナー社のワーナー・ブラザース・テーマパーク・ディビジョン社長を説得した。そして羽島駅の南側の現地に彼を案内し、ワーナー映画ランドとショッピン・モールの建設を同社長に要請した。
>「川勝さん、この場所は、東海道新幹線の羽島駅、名古屋鉄道の羽島駅、名神高速道路のインターにいずれも歩いて数分である。また名古屋市内にも近い。ロケーションとして最高だ。しかし土地地主が多く、その開発に反対する人も多いと聞いては、残念ながら気乗りしない」と断られた。彼は、日本の土地問題で検討と結論が長引くことを嫌った。
>筆者は、地方都市の開発に長い年月を掛けて取り組んだ。いつも直面した問題は、土地利用問題であり、地主の反対であった。
>羽島駅南の2つのプロジェクトのどちらかが、もし実現すれば、地主が得られる土地賃貸収益は、当該田畑耕作による収益の10〜20倍になることが明白であった。全体の僅か10%弱の地主達は、外国企業に土地を貸すことも、売ることも拒んだ。

●大野伴睦(おおの ばんぼく、1890〜1964)の夢
>大野 伴睦氏は、東海道新幹線・羽島駅を作った。彼の努力がなければ岐阜県は新幹線の駅を全く持たない県になった。彼は所謂「岐阜県の英雄」である。彼の像は羽島駅のそばに立っている
>彼は、立憲政友会の院外団に入り、東京市会議員を経て中央政界に入った典型的な党人政治家である。衆議院議員選挙に通算13回当選して、北海道開発庁長官、衆議院議長、自由民主党副総裁を歴任した(従二位勲一等旭日桐花大綬章)。
>筆者は、いつも羽島駅のプラットフォームに降り立つ度に、彼が描いた「夢」を何とか実現したいと思った。そして上記の2つのプロジェクトを実現させようと頑張った。しかしすべて失敗に終わった。
>現在、羽島駅南側の広大な田畑のアチコチに民家がいくつも建っている。今後もその数が増えるであろう。その結果、「虫食い状態の土地」になった。そして日本で有数の交通の便に恵まれ、大消費地を背景とする「真っ平らの広大な土地」は、もはや大規模開発プロジェクトに適する土地でなくなり、それが実現する機会もほぼ永久に無くなったと言えよう。
>現在、国も地方も「地方格差の是正」、「地方経済の振興」等を声高に叫んでいる。しかし格差是正や経済振興への取り組みの裏の実態は、目を覆うばかりである。大野伴睦が天国でこの実態を知ったら何と言うだろうか。また赤さびだらけの自分の像を見て何と思うだろうか。

●岐阜県の成功プロジェクト
>筆者は、上記の3つの大規模プロジェクトを実現させることが出来なかった。しかし実現させたプロジェクトも幾つかある。
(1)岐阜バーチャル水族館プロジェクト
>筆者は、梶原 拓・前岐阜県知事の命を受け、基本コンセプトを纏め、基本計画を構築した。そしてセガ社とナムコ社に提案した。同知事に採択を仰ぎ、セガ社が決った。そして同社と共に企画〜建設〜運営の全てを検討し、実現させた。
(2)岐阜・世界淡水魚園プロジェクト
>同知事の命を受け、上記(1)の水族館に隣接する「世界淡水魚園」の基本コンセプトと具体的な企画内容も纏めた。同知事の採決を仰ぎ、三菱商事に決定して貰い、PFI方式で実現させた。
(3)岐阜・昭和村プロジェクト
>同知事の強い要請で「昭和村」の基本コンセプトと具体的な企画内容を固めた。そして単身渡米してディズニー社のテーマパーク・ディビジョン社長に直接会って、昭和村の企画〜建設〜運営を同社に任せたいと要請した。しかし同社はディズニー・シーやアジア各地でのディズニー・テーマパークの企画と建設に忙殺されているとのことで「NO」となった。その後、(株)ファームの協力によって昭和村は実現した。

●キッズ・ワールド・プロジェクト
>上記のワーナー・ブラザース社長は、その後、長年の社長を引退し、コンサルタント会社を作って、悠々自適の生活を過ごしていた。ある日、同社長が某氏を介して筆者に「キッズ・ワールド・プロジェクトを日本で作りたい。相談に乗って欲しい」と要請してきた。
>彼は、日本の商社、銀行、大手ゼネコンなどに相談していたが、一向にラチが開かず、困り果てて筆者を頼ってきたのである。筆者がMCAユニバーサル・スタジオ・ツアーを日本で最初に企画した者であることを知っていたためであった。
>一方「キッズワールド」の企画内容を知った筆者は、岐阜県理事として、是非それを岐阜県に誘致したいと思った。そのため筆者の古巣のセガ社に同社長を紹介し、彼の提案を持ち込んだ。セガ社は、その提案を直ちに受け入れ、セガ会長、社長、企画担当幹部は、本格的に「キッズワールド・プロジェクト」の検討を始めた。
>しかし本家本元のメキシコのキッズワールド社の中である問題が起こった。そのためゼガ社は、同提案を決定できない結果になった。その間に他の日本企業がセガ社とは別ルートで「キッズワールド」のプロジェクトを推進した。そして実現させたのが現在の「東京キッザニア」である。
>東京ディズニーランド、東京ディズニー・シー、MCAユニバーサル・スタジオ・ツアー大阪、セガ・ジョイポリス、北九州スペース・ワールドは、すべて「本物」のテーマパークである。一方「キッズワールド」、即ち「キッザニア」は、「新しいタイプ」のテーマパークである。この「本物」&「新しいタイプ」という意味については、この「エンタテイメント論」の別号で説明する。
>さて「キッザニア」の実現に努力し、成功させた企業のリーダー及びフォロワーの方々に、この紙面を借りて敬意を表したい。何故なら彼らは、日本のエンタテイメントの世界に新しい風を引き起こしたからである。
>キッザニアは、今後、東京、甲子園以外に幾つかの都市で作られるだろう。筆者は、日本で最初にキッズワールド・プロジェクトに取り組んだ一人として、新潟県に是非「キッザニア」が作られることを願っている。そしてPMAJオンライン・ジャーナルの「エンタテイメント論」がキッザニア関係者の目に触れることを願ってやまない。

キッザニア
(つづく)

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