PMプロの知恵コーナー
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ダブリンの風(65) 「安  全」

高根 宏士:11月号

 日本で古くから遊ばれている代表的なゲームに囲碁と並んで将棋がある。将棋の起源はインドといわれている。それがヨーロッパではチェスに、日本では現在のような将棋になった。将棋は昔、大将棋、中将棋、小将棋とあったが、現在残っているのは小将棋だけである。江戸時代、幕府が保護したために、大きな発展を遂げた。
 現在の将棋界には史上最強といわれる羽生善治名人がいる。彼は若くして主要タイトル7つを独占し、現在も44冠を保持している。また王座戦では史上最長といわれる17年連続してタイトルを持っている。その彼がNHKの100年後の世界に向けて企画した番組に出演した。そこで彼が言った言葉に

 「今日勝つ一番高い確率の手を指すことは10年後に最もリスクがある(負ける確率の高い)ことになる」
 「勝率(数字/データ)は過去を見ている。勝負は未来にある」

 があった。
 彼は未だ30代であるが、さすがに物事の本質を見ている。平均レベルの人間では何歳になってもこの境地には達することは困難である。
 我々の世界を見渡してもこのようなことは常に起こっている。例えばビジネスマンの世界で、日常で最も安全と思われる手は上司、または上層部の意向に沿って(悪く言えば迎合して)発言し、行動することである。本質的な意味で主体的に考えて行動していない。これで自分は安泰と思っている。しかしその人間が定年退職、またはリストラで解雇されたときは悲劇である。定年後何をしていいのかわからないで、ウロウロ、オロオロ、ボーッとしているのが多い。リストラになったときはもっと深刻である。「裏切られた」といって切歯扼腕している人をよく見かける。しかし会社や上司を恨んでも後の祭りである。全てはその時点で最も安全と思う手を指してきた自分の問題である。
 経営においてはこのようなことはより多く見かけられる。単年度の売上や利益ばかりが気になり、10年後の世界を見ていない。いまや単年度どころか四半期レベルの数字が話題になっている。今回の金融パニックの問題も、単に現状で最も儲かるものは何かだけをターゲットにした集団的な金融工学の浅薄な適用である。
 システム化の例でも、一時、効率化、コスト削減ということで、外注化、アウトソーシングがもてはやされた。しかしそこで成功した例は少ない。本当に業績に貢献したのだろうか。反って脚を引っ張ったのではいないだろうか。一つはシステムがブラックボックス化し、社内で誰もシステムの中身がわからず、自分たちのビジネスのためになるシステム構築のイメージを持つことができないことである。そしてベンダーの提案を機械的な手法に従って評価し、仕事をしていると錯覚していないだろうか。それに付随してビジネスの要求に応じた開発や改修のスピードが出ないことも問題である。この要因として二者間契約等の手続き的な問題も大きい。これらは薄っぺらな効率化を指向し、自分たちが主体性や責任を持たないで、安易にシステムを使おうとしたところにある。
 ところでプロジェクトマネジメントの知識エリアにリスクマネジメントがある。リスクマネジメントではリスクを分析し、できるだけ負のリスクが少なくなるようにプロジェクトを進めることが目的である。これは羽生名人の言葉と反対の考えのように見える。しかしリスクマネジメントでは
 「読まなくてもいい手」
 「リスクのない手」
 を手を指せと云っているわけではない。このような手を指すということは現状維持であり、何も考えないことである。リスクマネジメントで言っていることは先ず、目的に対して効果的な手を考えることであり、次にそれに伴うリスクを検討し、そのリスク指数をできるだけ下げるために徹底的に読むことである。これは羽生名人が云っていることと同じである。
 昔「名人に定跡(囲碁では定石)なし」といわれていたが、これは定石を無視することではなく、定石をきちんと体得したうえで、勝負の現場では定跡通りに指すことに意を用いず、その場に最も良い手を考案することに没頭することである。

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