PMプロの知恵コーナー
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ダブリンの風(64) 「八 島 湿 原」

高根 宏士:10月号

 ここ10年近く、夏になると学生時代の友人であるFのログハウス(山梨県清里の近く)に出かける。Fは定年のときに退職金と自社株売却の資金で立派なログハウスを建て、悠々自適の生活をしている。そこへ学生時代の飲み仲間であったSやNと私を毎年呼んでくれる。4人は、専攻はそれぞれ違っていたが、昼は喫茶店、夜はバー(その頃はスナックと呼ばなかった)などに入り浸っていた。そのつきあいがまた戻ったような感じである。
 1泊の予定で1日目はゴルフをし、その晩はログハウスで飲み会である。このときが学生時代に最も近くなる。2日目はゴルフをするときと、近くの散策をするときのどちらかになる。なりゆき次第である。
 今年も七月末に集まった。2日目はゴルフをせずに散策をすることになった。そのときに行ったのが霧が峰から八島湿原である。この辺りは10代に始めてきて以来4回目になる。始めてきたときがやはり最も記憶に残っている。1日目に確か、茅野から途中までバスで行き、そこから車山に登って、白樺湖まで下る予定だった。思ったより早く車山の頂上に着いた。きれいに晴れていた。時間も相当あるので、八島湿原まで脚を伸ばそうということになり、回り道をした。八島湿原はその3年ほど前に行った尾瀬ヶ原と似ていた。その頃は現在のように車が通れる道路があるわけでない。全て歩いた。八島湿原は素晴らしかった。ところが車山へ戻ろうとしたら、突然天候が急変し、強い雨が降り出した。そして見通しが利かなくなった。10人ほどのメンバーだったが、皆慌てだし、パニックになりそうになった。その頃は周りには何もなく、車山の頂上近くに山小屋が1軒あるだけだった。幸い昼に1度近くまで行っていたので、道(1人歩けるだけの)はわかっていた。そこで全員歩くのは止めて、1箇所に留まることにし、私ともう一人がとにかくその山小屋を探すことになった。落ち着いて見ればそれほどの問題もなかったが、周囲の状況が見えなくなり、気持がパニックになると、恐ろしい事態になることを感じた。
 今回は、途中は全て車である。したがって50年前のような危険はない。湿原を囲むように木道がある。それを歩いて1周した。昔を思い出しながら、そして昔よりも開けて、人が多いのを感じながら。私とNは全体の風景や雰囲気の良さを楽しんでいただけだったが、FとSは違っていた。我々には見えない、いろいろな花を探してその花の美しさを楽しんでいたのである。我々に見えるのはシシウドやヤナギランと、車山の近くにあったニッコウキスゲぐらいである。シシウドは白、ヤナギランは紅紫色で、どちらも1〜2mほどあり、湿原では大きく、群生しているので誰でもわかる。ニッコウキスゲはきれいだがシシウドは少しあくどい感じがする。それ以外の花は、全体の草木に埋もれて、単に風景の中の色合いを形作っているに過ぎないように見えた。ところがFやSに「それぞれの花にはそれぞれの美しさがあり、それを楽しまないのはもったいない」といわれた。例えばコオニユリとクルマユリは、花はほとんど同じに見えるが、葉の形で違うことがわかる。ハクサンフウロは小さいがピンクのかわいい花である。イタドリ、イブキトラノオ、カラマツソウ、バイカウツギ、ミズチドリは花の色は白であるが、花も葉も、形はそれぞれ違う。その中でもカラマツソウは楚々として可憐である。またシモツケソウとシモツケは違う種である。シモツケソウは草であり、シモツケは木である。どちらも花はピンクであるが、シモツケのほうが、色が濃い。これらの花の名前は主にFから教えてもらった。このとき双眼鏡が力を発揮することがわかった。これらの花であまり大きなものはない。したがって少し距離があると目立たなくなってしまうが、双眼鏡を使うとそれらが一つづつはっきり見える。それぞれの美しさが際立つ。
 如何に我々(Nも)がものを見ていないかが痛感された。視力が悪いわけでもないし、ほとんど同じものを見ていながら、一方はいろいろな具体的なものを見、しかもその美しさも鑑賞しているのに、片や我々は一つの風景しか見ていない。その中にある具体的なものは何一つ見ていない。
 私が自然に対して一つの風景しか見えないことが人間の世界でもありそうである。例えばここに一つの組織(人間集団)がある。ある人がその集団をマネジメントしているとき、単に成果を挙げているか、どうかだけが問題になってしまい、成果が上がっていない場合はそこにいる人間の能力がないと思ってしまう。そして「自分のところには人材がいない」とぼやく。この人にとっては人材とは、花で言えば咲き誇る桜や牡丹、薔薇である。しかしその中にいる人達はハウクサンフウロやカラマツソウであるかもしれない。このような人達の美しさ(能力、長所、強み)を感じる能力が彼(彼女)等にはない。彼らにとっては、花とは桜や牡丹や薔薇である。しかし世の中ではそれ以外の花が99%以上である。この99%の花の美しさがわからなければ、ほとんどの人間の能力を発揮させることはできない。野草と同じようにほとんどの人間は何らかの美しさを持っている。これを見つけ出すことに最大の神経を使うこと、またその見つけ方を、倦まず弛まず練磨することが集団をマネジメントする人間に最も要求されるのではないだろうか。そのとき望遠鏡に相当するものは何かは自分で考えなければならない。

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