PMプロの知恵コーナー
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「エンタテイメント論」(7)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :10月号

エンタテイメント論

6 日本と海外の観光事業
●北京オリンピック
>北京オリンピックを取り上げたため「日本と海外の観光事業」の章が膨れ上がった。今しばらくこのテーマでのお付き合い頂きたい。何故なら「エンタテイメント論」として見たオリンピックは大変興味深い対象だからである。
>オリンピックの閉会式とアトラクションがあまりにも凄かったので閉会式とそのアトラクションの迫力は薄らいだ。
>筆者は、実際に両方とも見聞していない。TV画面で見たアトラクションで本論を議論しているのでリアリティーに欠く。その点に関してお許し願いたい。しかし現場の雰囲気や臨場感は、それなりに伝わってきていると感じている。

●各国のメダル獲得トップ10
>中国が獲得した「金」の数はダントツであった。日本の「金」は一桁台で韓国にも負けた。

各国のメダル獲得トップ10

>金の数やメダルの総数で各国の「国力」や「国勢」を比較するつもりもない。何故ならメダルは、国家でなく、個人が取るものであるからだ。
>しかしアスリートの精神力、体力、努力など個人の力だけで当該競技のメダルを取ることは事実上、不可能という現実が存在する。この現実を直視すると「金」と「メダル」の獲得数は、「国力」を象徴するとは言えないが、「国勢」を象徴すると言えるかもしれない。しかし客観的なデータや研究に基づいてそう述べている訳ではない。その種の研究が既になされているかもしれない。しかし筆者は知らない。もし知っていたら教えて欲しい。

●世界基準の体験が必須
>現在のオリンピックは、昔のオリンピックでなく、プロが参加する「プロ・オリンピック」である。オリンピック主催国や主催自治体は、その国や自治体を世界にアッピールする絶好のチャンスと考えている。また遠来のアスリート、競技関係者、メディア、そして来客を如何にもてなし、彼等に如何に好印象を持って貰うかについて奮進する。オリンピックがエンタテイメントの研究対象になる理由の一つがこれである。
>さて国、自治体、企業、個人がアスリート達をどの様に発掘し、育成し、競技で鍛えるか? この課題について前号で、発掘、育成、競技に対する認識基準と行動基準を提示した。その基準とは、日本新記録という日本基準(Japanese Standard)でなく、世界新記録という世界基準(Global Standard)である。
>科学の世界、工学の世界、ビジネスの世界、そして芸術の世界に関与する数多くの日本人は、日本基準を認識と行動の基準に置いているだろうか? Rank and file(普通)の人物は別としてLeader(指導者)は、常に世界基準を対象にしているだろう。にもかかわらず日本のスポーツ界のアスリートや関係者は、何故、日本基準に拘るか? 「井の中の蛙、大海を知らず」である。

●世界基準体験のための試み
>以上の様なことを言うと例外なく「我々は、常に世界を意識し、訓練に励んでいる」と強く反論するだろう。ならば前号でも指摘したが、オリンピック出場を目指す水泳選手は、プールのレーンで泳ぐ「世界新記録保持者と同じ泳ぎ方をするロボット」を使っているだろうか。その様に言うと、「ロボットを作る予算がない」と必ず反論するだろう。
>そんなことは工夫次第である。ロボットなど作らなくても、たとえば何か軽いウキに簡単なガイドロープを付け、飛び込みと折り返しのプールサイドで小型モータを設置し、ウキに付けた紐を引っ張ればよい。スピードコントロールは、モーター、センサー、そしてPCで可能だろう。数万円で作れる。そうすれば、世界新記録保持者が前半、中間、後半、どの様なスピードで泳ぐかが一目瞭然で分かる。そしてその凄さを「体験」できる。
>この様な体験によって世界基準をアスリートの認識と身体に埋め込ませることである。日本新記録と異次元の世界が分かるだろう。この異次元体験でも「勝てそう」と思えば挑戦心が湧く。「とても駄目だ」と思えば諦めもつく。諦めたくないなら、従来の練習の考え方と方法を革命的に変えることである。
>筆者は、スポーツの専門家ではない。筆者の世界基準対応だけが良い方法とは思わない。しかし世界基準は、もはや世界基準というよりも、我々日常生活にまで食い込んで来ている。だからこれを最重要基準として日本の競技関係者はアスリートの発掘、育成、競技出場決定などを行うべきと主張しているのである。
>過去の実績、人気、しがらみなどによる選手選抜は、誤りを犯す原因になるだろう。特に「過去の実績」は問題である。筆者は、過去の実績よりも、最近の「実績」とこれからの「可能性」を基準に選手選抜をすべきである。また監督も選ぶべきである。この点に関して北京オリンピックで際立った課題を提起した事実を以下に述べたい。

●日本の野球チームと女子ソフトボール
>日本の野球チームの星野監督は「金しか要らない」と豪語した。競技結果は、「金」が韓国、「銀」がキューバ、「銅」が米国、日本はなんと4位となった。「要らない」どころか「頂けない」結果になった。何故、そんな豪語を吐いたのだろう。余程自信があったためであろう。
>星野監督は、「言い訳をしない」と言いながらTVで醜い言い訳を繰り返した。更にTV報道陣の質問に「日本選手は他国選手に負けない実力を持っていた」と発言した。
>「ここ一番で打てない選手」、「ここ一番で捕れない選手」は、プロの世界では1流選手とは評価されない。日本選手はここ一番で勝たなかったのである。超一流の選手があまり参加していない、またアマチャー選手も加わった外国野球チームに、現役の日本のプロの監督や選手が勝てなかったのである。
>もし星野監督が本気と本音で「彼等に実力がある」と思うなら、「勝てなかった原因は、自分にあった」ことを彼自身の口で天下に公言したことになる。「言い訳になるから言わない」という彼の発言の裏に、自分の実力を否定したくない心情と自分を客観視出来ない実相を白日の下でさらけ出す結果になった。もし彼が本気と本音で自己評価をしていたら「言い訳になるから言わない」ということも言わず、「敗軍の将、兵を語らず」と完全な沈黙をしたかもしれない。
>星野監督は、日本チームのオリンピック対応訓練、オリンピック競技への秘策検討、相手チーームの分析、オリンピック野球の研究、選手の北京入りの方法など数多くの面で準備を怠ったと聞く。「オリンピックに勝てる」との自信が災いした様だ。「夢工学(本連載の前に連載したもの)」では「成功は成功の母」と主張する。しかし「成功の復讐に気をつけろ」とも説く。彼は、自身の過去の栄光という「成功」に復讐された様だ。
>如何なるスポーツ界の監督も、選手も、過去に如何に凄い実績を出していたとしても、現在のポジションによって評価される。そして世界基準で評価される。これが現実の世界である。
>一方女子ソフトボールの競技結果は、日本が「金」、米国が「銀」、豪州が「銅」であった。日本の女子ソフトボールを勝利に導いた「監督」、ロスアンゼルスで密かに習得した投球の必殺技を最後の勝負どころで使って相手をねじ伏せた「ピッチャー」、そして命がけで戦い、ここ一番で打ち、ここ一番で捕って勝利した「チーム・メンバー」、とにかく「凄い」の一語である。
>男子野球チームの星野監督と当該プロ選手達は、女子ソフトボールの監督や選手達に会い、「野球を如何に監督すべきか」、「野球を如何に戦うべきか」、この際、教えを乞いに行ってはどうだろうか。もしそこまで真摯に自らを反省し、野球に向き合う自らの姿勢を正したらば、世間は、彼等に与えた厳しい評価を全面的に撤回するだろう。

●北京パラリンピックの開催
>日本のパラリンピックの実況TV報道が少なすぎる。残念の一言である。
>ハンディキャップを負いながら、世間から冷たくされながら、健常者に負けない闘志と努力で「金」などのメダルを獲得する選手とそれらを支える人達の活躍と背後にある人間物語を日本と外国を問わず、もっともっと報道し、世の中に人々に知るせるべきであろう。
>さてパラリンピックの開会式のアトラクションは、オリンピックのそれとは規模も迫力も比較にならないものであった。しかしそのアトラクションの質に関しては十分比較に値すると思った。様々な工夫を凝らした見事な演出、エンタテイメント性の高い内容があった。特に見応えがあったものは、「耳が聞こえない女性達」に手話でマス演技をさせたアイデア、技術、その芸術性に感動すら覚えた。正直、脱帽であった。
パラリンピックのアトラクション
パラリンピックのアトラクション
− 耳が聞こえない女性達の演技 −

>パラリンピックは、オリンピックの競技組織に加わり、一元管理される様になったとのことであった。近い将来、パラリンピックが同じ五輪マークを担い、同じ「金」、「銀」、「銅」メダルを使い、オリンピックの競技種目に組み込まれ、同じ日程内で実行される日が訪れることを願ってやまない。何故なら同じ人間のスポーツ競技だからである。
>パラリンピックについて様々なことを述べたい。しかし紙面の関係と本来の「エンタテイメント論」の趣旨からやや脱線することが多くなりそう。そのため「オリンピック」と「パラリンピック」に関係するアトラクション並びにエンタテイメントに関する記述は、本号をもって終わりとしたい。

(つづく)

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