PMプロの知恵コーナー
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「エンタテイメント論」(3)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :6月号

エンタテイメント論

第1部 エンタテイメント論の概要
3 日本的エンタテイメント

4 日本の繁華街と日本的エンタテイメント
日本の温泉街に存在した「日本的エンタテイメント」は、日本の数多くあった繁華街に元々存在したのである。

「日本的エンタテイメント」とは、日本の伝統に基づくエンタテイメントとその後の時代の変遷に対応して産み出されたエンタテイメントの両方を示す。それは、繁華街が生みした「都会型エンタテイメント」とそれが地方に影響を与えつつ、温泉街などの独特の地場要素と結合した「地方型エンタテイメント」を産み出した。

日本的エンタテイメントのシンボル
日本的エンタテイメントのシンボル

日本は、戦後の混乱期を経て生き残り、高度経済成長に向かう時代に、数々の形態の「日本的エンタテイメント」を発展させた。人々は貧しさから豊かさに向かい、「明日の夢」を実現させる過程で、その人の生活レベルに合わせて精一杯、これらのエンタテイメントを味わい、自らも参加し、支えてきた。

しかしその後、ある異変が起こった。それは、高度経済成長を遂げる時代から始まった。そして最近、「日本的エンタテイメント」は、危機を迎えた。これについては、別章で改めて説明する。

5 温泉街の活性化の具体的提案
筆者の講演もいよいよ終盤に入り、今まで筆者に心情的に反発していた聴衆は、筆者の一つ一つの発言に聞き入る様になった。

筆者は、下呂温泉の活性化策として2つのことを提案した。それは、肯定的観点から「やるべきこと(Positive Clause)」の提案と、否定的観点から「やるべきでないこと(Negative Clause)」の提案であった。

前者の提案では、「金をあまり掛けないで宿泊客を楽しませるエンタテイメント」と「金をそれなりに掛けるが宿泊客をより強く魅了するエンタテイメント」の2つを提示した。特に「金を掛けないで実行できるエンタテイメント」を温泉街関係者が一丸となって考案し、実践することを強調した。

(5−1)金を掛けないエンタテイメント
筆者は、「金をあまり掛けないエンタテイメント」として、素人の芸人、素人の音楽家などを積極的に発掘し、活用することを力説した。

素人であってもプロ顔負けの腕を持った人は、必ずどこかに存在する。また素人でエンタテイメントの腕が優れていなくても、温泉客を楽しませる心を持ち、心を通わせることに長けた素人は、プロよりも遙かに素晴らしいエンタテイメントを提供することを筆者は、数多くの事例で知っている。

そのエンタテイメントの中身とは、三味線、お琴、太鼓などの邦楽器の演奏、民謡、小唄、端唄、長唄など伝統的な歌、地元に伝わる民話、不思議な実話、怖い昔話や実話の語り、手品、似顔絵描き、折り紙、ピアノ、フルート、バイオリンなどの西洋楽器の演奏、カラオケや映像を使った一人芝居や一人ミュージカルなどである。

これらのエンタテイメントを実践できる素人は、地元や地元周辺に数えきれない程存在する。そしてそれらの趣味や道楽をもった人達は、自腹を切って発表会を行ってるのである。実際に調べてみればその事は直ぐに分かる。

彼等に演奏や演技の場を与えれば、喜んで協力してくれる。彼等は、場所を借りるために自腹を切っていることを忘れてはならない。彼等を発掘し、彼等を起用することを地元ぐるみで実行するだけで、「金をあまり掛けないエンタテイメント」のではなく、「金が殆ど掛からないエンタテイメント」が実現するのである。

素人出演者で固めた日本的エンタテイメント
素人出演者で固めた日本的エンタテイメント

何度も繰り返す。彼等は、自らの腕前を友人、知人、その他の人々に見て貰うため、わざわざ自腹を切って高い会場を借り、自ら費用を掛けて出演するのである。もし彼等に無料で発表の場を与えれば、彼等は喜んで出演してくれる。彼等が出演するために実際に掛かる実費を負担しても、僅かな出演料を負担しても、大した額にならない。それ以上に彼等は、自分の発表を見せたいためにお客まで集めてくれる。そして彼等は、楽しくて、楽しくてたまらないエンタテイメントを力一杯実行してくれる。観客が感動するのは当然であろう。

彼等がもしパフォーマンスに失敗しても、観衆の爆笑を産み、彼等のおどおどした失敗の言い訳に同情すら生まれる。もし彼等が素晴らしいパフォーマンスに成功すれば、喚声、拍手を生み、そして一種の感動まで観客に与えるであろう。この様な「場」で客と演技者との間に心の通った温かいコミュニケーションが産み出されれば、これこそが「真のエンタテイメント」を実現したことになる。

5−2 金を掛けるエンタテイメント
筆者は、金を掛けるエンタテイメントとして、プロの芸人、プロの音楽家などを、ある方法で活用することを提案した。

プロの活用は、どこの温泉街でもやっていることである。しかし筆者の提案は、東京、名古屋などの大都市から有名なプロを呼ぶことではない。何故なら地元や地元からそう離れていない地域に素晴らしい現役のプロが沢山いるという事実に着目することである。またそれ以上の数の引退したプロがいるということでもある。

本気で探せば、昔取った杵柄ではないが、物凄い実力を持った引退プロを見付けることが出来る。そして彼等にお願いすれが、喜んで協力してくれるだろう。しかも費用は驚く程安いはずである。引退した中高年サラリーマンの再雇用が叫ばれているが、同じことが、中高年のプロの芸人やプロの音楽家などについても言えることを忘れてはならない。

「地元の観光振興や事業振興に協力して欲しい」と訴えれば、現役プロや引退プロは、勿論、協力してくれるだろう。また彼等が親しい有名プロを極めて安いギャラで紹介してくれるだろう。彼等は、ギャラも重要であるが、それ以上に彼等のエンタテイメントを世の中に有意義にアッピール出来ることを最重要と考えているからである。

5−3 イベントに頼らないエンタテイメント
後者の提案は、「否定的でやるべきでないこと(Negative Clause)」である。これは、イベントを安易にやってはならないということである。

高い金を掛けてイベント会場を設営し、高い宣伝費を使って人を集め、高いギャラを払って有名プロを起用し、年に1〜2回のイベントをすることは、ある条件が具備されない限り、絶対にやってはならない。

国、多くの県、多くの市町村、そして多くの商店街組合などは、「新都市開発」、「都市再開発」、「県おこし」、「街おこし」、「村おこし」、そして「商店街おこし」などのために、高いコストを掛けて「イベント」を開催する。彼等は、「集客」の最も確実で正しい方法は、「イベント」であると認識しているからであろう。

筆者は、「イベントをするな」と講演会の壇上で述べた。それを聞いた聴衆は、騒ぎ出した。しかし今回の騒ぎは、驚きであって、筆者をにらみ付け、怒りを露わにする人は、誰もいなかった。イベントの意義や効用については、別章で改めて議論する。ここでは簡単に提案内容を述べるにとどめる。

「イベント」は、「切り花」である。しばらくは咲いているが、直ぐ枯れてしまう。開催中は人が来るが、終わった後は誰も来なくなる。年に1度か、2度のイベント目当ての温泉訪問客など当てにならない。リピーターこそ当てになる客である。切り花でなく、根を這った植木の花こそ咲かせるべきである。

イベントで儲けるのは、イベント主催者でなく、儲ける会社、イベント企画会社、イベント会場設営会社、イベント運営会社、広告代理店、そしてイベント開催に金も、協力の手も出さず、ただ乗りで儲ける会社などである。

イベントの開催で儲けたい彼等は、「新都市開発」、「都市再開発」、「街おこし」、「村おこし」などにイベントの必要性を訴え、イベントの内容を売り込む。更に御用学者、御用評論家、偽都市開発専門家などがイベントを含む抽象的な活性化案を主張し、○○都市開発委員会、△△街おこし協議会などを開催する。しかし事態は一向に改善されず、「宴の後」の様な状態になる。

温泉街でやるべきことは、常設のエンタテイメントの場を設営し、1年365日間それを運営することである。言い換えれば「植木」で花を咲かせ、持続させることである。ビジネスとは、毎日運営されることで成り立つものである。1年に1回や2回のイベントを開催してどれほどの集客効果があると思うのか。正確に検証してみれば直ぐに分かることである。イベントの効果を重視し、どうしてもイベント行事を実施したいのならば、毎日、イベントを開催することだ。

筆者のいう「常設の場」とは、立派な会場でなくてよい。例えば、温泉旅館の食堂の片隅にカーペットを敷き、その上でエンタテイメントをさせてもよいのだ。また温泉旅館経営者が共同である場所を借りて開催してもよい。出演者は、掛け持ちで幾つかの旅館を回ってもよい。とにかく365日、開催することである。

お客は忙しいのである。温泉側の都合で開催されるエンタテイメントの日程に合わせて来てくれる客は、イベント関係者の家族や知人以外には殆どいないからである。しかしいつ訪れても必ず何か面白いエンタテイメントをやっていることが分かれば、お客は直ぐに行こうということになる。

「365日の開催には相当の人数を集めなければならない」と思うだろう。そして「とても無理だ」と諦めるだろう。しかし諦める前に実際に調査し、実験的に実施したことがあるのかと問いたい。筆者が新潟県参与として奉職する新潟県の某市役所は、筆者の指導に従って、素人、現役プロ、引退プロなどの出演可能者を調査した。その結果、驚くべきことが判明した。候補となる出演者をすべて出演させるとしたら数年間が必要であることが分かった。

筆者は、イベントを完全に否定している訳ではない。毎日、何らかのエンタテイメントが実施され、一定の集客が実現されているならば、年数回のイベントを開催してもよい。何故なら最適のイベントを開催する時期、場所、方法などが日頃のエンタテイメントの実行によって十分予測がつくからである。その開催時には、植木の花に切り花が一層の輝きを放つだろう。
つづく

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