PMプロの知恵コーナー
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まい ぷろじぇくと (20) 「気がつけばプロジェクト」

石原 信男:11月号

 寄る年波のせいか、昔を振り返ることが多くなりました。そして後付にすぎないものの、自分のここまでの人生ってプロジェクトだなぁ・・・、なんて感慨にふけっています。
 22歳で関西の企業に入社したとき、あと33年経つと定年というマイルストーンが見えていたように記憶しています。そして大雑把に途中のマイルストーン(MS)を設定したような記憶もあります。
MS-1 3年間で自分の進む専門技術の絞り込みをしよう
  1年目 仕事を覚えながら、手当たり次第に仕事に関係しそうな資料を集める
  2年目 それらの全部に目を通そう。そして興味の持てそうな技術分野を絞り込んでみよう
  3年目 その中からこれという対象をきめて4年目以降の道しるべにしよう
MS-2 25〜26歳で結婚して家庭を持とう
MS-3 妻が20歳代の内に子供を産み終えるようにしよう
MS-4 定年までに子供(達)がすべて独立(結婚)できればいいな
MS-2〜MS-4は時系列的に関連があります。つまり、MS-4を実現させるには
MS-2あたりで結婚しないとスケジュール遅延になりかねない。
MS-3は、30歳代に入ってからの出産は女性にとって身体的な負担が大きい。
定年後も二人そろって元気で過ごしたい。それにはMS-2が・・・。
MS-5 遅くとも40歳までには自分の持ち家を確保しよう

といったものでした。
 その当時はまだ、プロジェクトとかプロジェクトマネジメントなどという概念は私の頭の中に影も形もなく、したがってこれらがマイルストーン(里程標)だなんてことも知りませんでした。
 そんな訳で、今振り返ってみたときに、なんとこれが立派な?マスタースケジュールの形になっているのに驚いている次第です。「オレって昔からプロジェクトマネジメントの才能があったのかも・・・」な〜んてね。

 結果からすると、ほぼマイルストーン通りにいきました。各マイルストーン間では、ローリングウエーブ・コンセプト風のスケジューリングがなんとなく行われていたように思えます。これも今振り返ってみての後付けにすぎないのですが・・・。
 しかし、40歳代の半ばで私は病気に罹りました。幸い名医のおかげで完治しましたが、「石原さん、もう卒業ですよ」と伝えられるまでには長いことかかりました。これはリスクというよりもアクシデントみたいなものですが、私にとっては誤算の一つでした。
 病気を告げられた時のことは今もはっきりと覚えています。メキシコシティーでエンジニアリングサービスをしていたのですが、帰国して会社の病院で診断を受けたところ、名医と噂の高い先生から「石原さん、出世とりますか?イノチとりますか?」と告げられました。すぐに「先生が名医ならばオレは名患者になってやろう」と覚悟を決めました。このあたりが医者と患者の信頼関係を醸成し、良い結果につながったのかなとも思ったりしています。病気を治すというのは患者本人の治そうという意志と治療しようという医者との協同作業であって、どちらがヘボでもうまく行かないのでは、という認識はこの当時からありました。
 成功率が低迷したままのITプロジェクトでも、発注者と受注者の間にこのような協同の意識がうまれたら意外に成功率が向上するかも知れませんね。
 もう一つ、ここにきて結果として現れた大きな誤算は、20歳代で3人の娘を産み終えた妻の、現在の健康状態があまりに良すぎることです。女性の生命力の強さ、すばらしさにはほとほと感心します。

 59歳で退職しましたが、55歳以降は自分の実務経験に理論的な裏づけができるものかどうか、考えるようになりました。そして退職後の2年ほどを近くにある大学院のMBAコース聴講生としてゼミに参加させてもらいました。べつに修士号やMBA資格を取得する目的ではないので、気楽にとても楽しい時間を過ごせました。
 なかでも「現代の人材開発」というゼミは、今の私の仕事に役立っています。都市銀行、大手商社、生命保険会社、製薬会社、広告会社、税理事務所、監査法人などの従業員、小企業経営者、幼稚園理事長、大学の就職指導員、中国からの留学生、などの人たちと毎回侃々諤々の議論を交わしました。
 このゼミのほかにもいくつかのゼミを渡り歩きましたが、教科書を輪読したり外国の文献を翻訳してその意味を説明するといったものは、どうも私にはしっくりきませんでした。これは学問を軽んじるということではなく、学問は学問として尊重すべきなのですが、なにか違和感を覚えてしまいました。ながい現役生活のあいだに、プロジェクトという将来の成果のイメージを現時点で先取りすることから始まる仕事に、慣れすぎてしまったせいかも知れません。
 プロジェクトは今までにない新たな価値を創造する活動です。新たな価値を創造しようとしたら新たな知識が必要になります。そのために必要な新たな知識と、いま適用できる既存の知識との間の乖離が大きければ大きいほど、成果を得るまでの見通しの不透明さ(リスク)は大きくなります。プロジェクトをやる人間というのは過去の積み重ねを踏まえながら、そこから未知の領域にあえて踏み込んで思考し行動する習性が身についてしまっています。そうしないとまだよく見えていない新たな価値にまで手がとどかないからです。
 学問では仮説を設けてそれを検証するということをしますが、プロジェクトマネジメントでは仮説そのものがプロジェクトの成否を左右し、検証の結果がダメだったからこの仮説は成り立ちませんでしたではすまない世界です。
 私は「プロジェクトマネジメント学」といったような学問は成り立たないのではないかと思うことが時々あります。プロジェクトはユニークさに特質があり、ユニークさの数だけプロジェクトマネジメントがあるといっても過言ではないでしょう。となれば、これらのすべてに共通する普遍性でくくれる部分というのはかなり狭い範囲に限定されるでしょう。たとえばPMBOK® ガイドのような知識の体系にしても、体系化できる知識領域はとても限定的です。だから普遍性の外にある特異性はまとめようがないのですべてそぎ落として、そこは他におまかせしましょうということにならざるを得ません。

 でもこのような2年ほどの学問の時期を過ごせたことは私にとってプラスになりました。はからずも、プロジェクトマネジメントというものをいろいろな視点や切り口から見ることができたからです。理論と実際、医者と患者、発注者と受注者、いずれも自があっての他、他あっての自といったあたりも再認識でき、私のプロジェクトマネジメント論の確立に役立ちました。

 私の人生プロジェクトは経済的には成功とまではいきませんが、自分の描いた道筋のほぼ近いところを歩けたということは、生き方としてはまあまあというか、そこそこというか、こんなところで収まりそうです。問題は残り何年?のあたりが見えないことです。

 ご意見がありましたら  こちらまでお寄せください。

 次回も身近な まい ぷろじぇくと について考えます。ご期待ください。
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