PMプロの知恵コーナー
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ダブリンの風(43) 「コミュニケーションの壁」

高根 宏士:10月号

 以前(2005.5再び「経験の共有」について)「馬鹿の壁」を例としてコミュニケーションの難しさに触れたことがあった。今回はコミュニケーションの壁が「バカの壁」だけかどうかについて考えてみたい。少し考えただけで気がつくものに「バカの壁」、「無関心の壁」、「軽侮の壁」、「傲慢の壁」、「不信の壁」、「ライバルの壁」、「嫌悪の壁」、「自己保身の壁」、「臆病の壁」、「恐怖の壁」、「視野の壁」等が挙げられる。これらの壁は全て受信者側の壁である。

 「バカの壁」
 この壁は言い方を変えれば「知っているつもりの壁」である。原点のところは知らないで、それについて中間的に解釈したり、解説された符号を見て知ったつもりになっていることである。男が妊娠について知っていると思っているのはその1例である。男は誰も実感として妊娠を知っているわけではない。この壁はガラスの壁である。ガラスの中にいる人に向かって水を注いでいるようなものであり、どんなに水をやっても本人には染み込んでいかない(伝わらない)。
 「無関心の壁」
 この無関心には内容についてと発信者についてと二つある。この例としては自分が関心を持っている異性と関心を持っていない異性を考えればわかりやすい。関心を持っている異性の言動はどんなに遠く小さく見えても気が付くし、どんなに声が小さくても聞こえる。反対に関心のない異性については目の前にいても目に入らない、傍で話されても耳に入らない。
 「軽侮の壁」
 相手を軽侮しているために相手から何を発信されても受け付けない。「あいつがいいことを言うはずがない」、「あいつはどうせ駄目な人間だ」、「あいつにできるはずがない」という認識である。
 「傲慢の壁」
 「軽侮の壁」が発信者に対するものであるとすると、「傲慢の壁」は人間全体、または世界全体を軽侮している壁である。「自分が一番知っている」、「自分が一番できる」「俺以上に力のある奴はいない」と思っているため、阿諛追従以外のなにものも受け付けない。ある世界の第一人者とみられる人の中に時々見られる。また急に成り上がって、失敗する前の人間に良く見られるパターンである。
 「不信の壁」
 相手を信用していない。不信感を持っている。発信者の下心ばかり感じて内容を吟味しようとする気にならない。
 「ライバルの壁」
 相手を殺るか自分が殺られるかという場合、相手からの発信は自分を惑わすものと見る。スポーツなどに見られる良い意味でのライバルはある1点のみの競争相手であり、それ以外のところではお互いに共存でき、尊敬しえる中だから相手のいうことを素直に聞くことができる。しかし本当の意味で「殺るか殺られるか」という場合は通常はそうはいかないであろう。
 「嫌悪の壁」
 相手の顔を見るのも嫌だという場合、相手からの発信を見たり聞いたりするだけの生理的余裕がない。
 「自己保身の壁」
 全て自分の立場がどうなるかという視点からしかものが見えないため、発信者の意図した本当の意味は伝わらない。場合により曲解され、恨まれたりする。このタイプの人は自分について生殺与奪の権を握っている人が神に見え、全てはその人がどう思うかからだけ考える。ただしその人が落ちた偶像になり権力がなくなると歯牙にもかけない。
 「臆病の壁」
 行動の第一歩を踏み出す勇気がない人である。この壁の人は言葉では相手の言うことがわかるような気がするが、それを行動に移すのが怖い人である。したがってやらなければいけないこととできない自分のギャップに益々自信がなくなってしまう。
 「恐怖の壁」
 発信者自身に対して恐怖感を持っているため、発しられる内容よりも発信者からの威圧感で圧倒されてしまう。
 「視野の壁」
 自分の持っている視野が狭いため、または視点が低いために相手の発している内容を理解できない。自分の内部にばかり閉じこもって、外を見ようとしない人に良く見られる。最近は楽に生きられる世の中になってきたために自分の世界だけで他の世界を理解しようとしない、また理解する必要もないと思っている、極端に云えば他の世界があることを想像できない。「異文化コミュニケーションの壁」は「視野の壁」を文化間に拡大したものである。

 コミュニケーションの壁は全て受信者側の壁である。言い換えれば受信者側がコミュニケーションの主導権を持っている。したがってコミュニケーションを円滑に機能させるためには受信者側の視野を広げ、傲慢や恐怖によるフィルターを除き、無関心等の「閉じた窓」を作らないよう注意しなければならないであろう。お互いに虚心坦懐で素直な心境を持つよう注意したい。