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ダブリンの風(40) 「標準に頼るな、標準を活用せよ」

高根 宏士:7月号

「中国のクレーム」

 中国は、2008年にも日本向けの割り箸輸出を停止する方針を示したということをニュースが報じていた。日本への輸出量が多すぎて、森林破壊につながることが禁止の理由である。その中には割り箸は贅沢品であるという認識がある。
 現在、日本国内の割り箸消費量は、年間250億膳、1人あたりの年間消費量はおよそ200膳以上になる。その90%以上が中国からの輸入である。これだけの割り箸を使っていれば当然このための材木は大量になるであろう。現在の地球から見れば許しがたいことであろう。中国政府が関税の引き上げや伐採の制限を設けるのは納得できる。むしろ日本が輸入関税を掛けるぐらいの先見性があっても良かったのではないかと思われる。

割り箸の起源

 現在割り箸は贅沢品、地球環境破壊の要因の一つのようになっている。そしてそのような割り箸を発明した日本人は贅沢で、環境破壊の元凶のように一部では思われている。それでははじめて世に出た割り箸は贅沢品だったのだろうか。
 「割り箸」が誕生したのは江戸時代である。その頃そば屋や鰻屋では、吉野杉で酒樽を作る際に生じる余材を使った「割り箸」(使い捨てのお箸)が出されるようになった。この箸は、清潔好きな江戸庶民に大変喜ばれ、家庭以外の場所や不特定多数の人を対象とする場所で使用する箸として定着していった。そして需要が多くなり、間伐材を使用するようになった。森林を人間に役立つように保護するために、間引きした間伐材はそれまであまり活用されていなかったが、それを需要が多くなった割り箸に活用するようになった。あくまでも余材、廃材の利用という線を越えてはいなかった。余材、廃材を新鮮で、衛生的に見えるように切り替えた素晴らしいアイデアだった。そのアイデアの根っこには江戸時代の節約、倹約の精神があった。

現代の割り箸

 割り箸が現代では何故贅沢品になってしまうのだろうか。そこには割り箸に対する江戸時代と現代の人間の考え方の差がある。江戸時代はあくまでも余材の有効活用であった。だから家庭で割り箸を使うなどということは考えなかった。現代は使用する側は労力の軽減である。箸を洗う手間を省きたいということである。提供する側は儲かるかどうかである。儲かりさえすれば、間伐材などではなく本格的材木になるような木まで伐採し、割り箸にしてしまう。
 これが中国の森林をなくし、日本の森林を荒廃させている。中国が安いために、日本では間伐材を利用した割り箸の生産が大幅に減った。そのため日本では間伐材を間引きする手間を掛けなくなった。間伐材を間引きしなければ良い木材を提供できる森林は育たない。このような間引きは花や果物でも良く使われる手法である。

現場と向き合った標準

 割り箸が贅沢品であるかどうかはそれに向き合う人間の問題である。現在割り箸が贅沢品に見えるのは、現代の人間が、ただ単に自分だけが楽をしたい、自分だけが金儲けをしたいという意識が根底にあるからである。現代の人間が贅沢だから、割り箸まで贅沢品になってしまう。それを忘れて割り箸自体を論うのは危険である。
 これと同じようなことは他の世界でも見られることである。ビジネスや生産の現場では「標準」ということがよく言われる。PMBOKやP2Mも標準の一つであるが、小は1企業内の「開発手順」とか「プロジェクト管理規定」等もある。ところが現場ではこの標準があるから、反って仕事に支障をきたしているということが云われることがある。そのようなところでは常に標準通りに物事がこなされているかどうかが問題にされている。現実や現場が忘れられている。標準化は本来、コミュニケーションの基本になる「共通認識」を作ることと、いわゆる「読み」を省くことが目的である。「読み」を省くということは、先人が既に解決済みのことについて、新たに自己流でレベルの低い考えを出して満足するような野暮をしないことである。したがって、標準は、それを生じさせた生きた現場、現実を基にしている。したがって現場、現実が本当に変わっているならば標準を変えていく柔軟性を持たせなければならない。ところが自分が向き合っている現場を整理して把握もできないことを棚に上げて標準が悪いと言っていることは不思議な現象である。
 標準化の本来の目的を深く認識し、瑞々しいか感覚で標準を観、現実と対比させつつ、標準を活用するならば標準は大きな効果をもたらすだろうが、標準をただ墨守していくだけ、標準に頼るだけの世界では標準は贅沢品どころか、有害物品となってしまうであろう。