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ダブリンの風(39) 「桜」

高根 宏士:6月号

染井吉野からウコンへ
 桜の季節が過ぎて早1ヶ月以上経つ。若い頃はそれほどでもなかったが、年を経るに従って、桜を好もしいと思うようになってきた。当初は染井吉野の美しさが印象に残った。いっぱいの染井吉野は華麗である。20年ほど前、あるソフトハウスに勤めていた頃、小さな川のそばに事務所があった。毎日自宅から1時間近くを掛けて、徒歩で通勤した。その川には事務所近くの短い区間に染井吉野があった。4月になると染井吉野が川を覆うよ
うに咲き乱れた。しかしそれを観ている人は少なかった。歩いている人達はほとんど桜を見る余裕もなく、駅へと急いでいた。
 50歳ごろから、それまで厚ぼったくて、モッタリシタ感じの八重桜に、反って艶麗な色っぽさを感じるようになった。最近は大島桜の白と緑のコントラストの清純な雰囲気、生真面目にピンクを主張する江戸彼岸、目立たずそっと咲きながら、そばへ寄れば寄るほど、落ち着いた優雅さを見せる薄緑のウコンなどに惹きつけられる。

花見
 桜には花見が付きものである。この時期になると花見で落ち着かなくなる人もいるのではないだろうか。東京では千鳥が淵、皇居、隅田川、新宿御苑、靖国神社などに多くの人が集まっている。桜よりも人の方が多い感じである。そして夕方からは、飲めや唄えの大宴会になる。昔はそれほどでもなかったが、最近は益々人が集まるようになってきた。10年以上前の千鳥が淵の朝は素晴らしかった。お堀が桜で囲まれ、青空と桜、そして朝の爽やかな空気があった。朝が酒とトイレの臭いと清掃車の風景になった千鳥が淵へはこの10年ほど行ったことがない。
 このように人が集まるようになったのは、多分テレビその他のメディアやインターネットからの情報が豊富に流されてからだろう。これらの情報はどこに素晴らしい桜があるかを教えてくれるのでありがたい。
 しかしこのお陰でメディア等が取り上げたものが桜の名所になり、人はそこに集まる。そして名もない路傍の1本の桜に気づく人は少ない。誰もが桜の名所に行ったことを自慢しながらも、桜の美しさを肌で感じた人は何人いるのだろうか。
 「千鳥が淵の桜は美しい。だから千鳥が淵に行った。そして自分はその桜を観た」
 テレビで桜が素晴らしいと云われているので、自分もそう感じなければならないと観念的に思う。それを実感と錯覚し、それに気づかない。現場の桜を観ていない。現場で本当に感じたことは、人に囲まれ酒に酔ったことだけかもしれないのに。

魔女狩り
 最近は誰もが観念的には自分で考え、自分の意思で行動していると思っているように見えながら、実は集団心理に操作されているのではないかと思うことが多い。自分で判断できずに、操作されながら、自分の意思で動いていると錯覚している。しかもその集団心理は誰か個人が意図的に操作しているというよりも、多くの人が、自分は世の中から遅れてしまうのではないかという強迫観念がつくっているものではないだろうか。
 現代の主流は民主主義である。しかしこの民主主義は、そのときの大勢の意見に少しでも異議をさしはさむと袋叩きになる。最も手に負えないのは、表面的浅い民主主義と教条主義的ナショナリズムが混合したものである。そこでは中世にあったキリスト教世界での魔女狩りが形を変えて、正義の顔をして出てくることである。中世の魔女狩りがナンセンスであるという人は多い。しかしそれをいう人の中に、意識せずに自分も魔女狩りに参加している人が少なくない。
 素直にものを見ることは重要であるが、本当に素直になるためには、厳しい自己反省の訓練が必要なのである。