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ダブリンの風(38) 「責  任」

高根 宏士:5月号

 「責任を取る」という言葉がある。
 最近は不祥事があるとテレビの前で最敬礼することが責任者の役割かのようである。そして最敬礼したことで責任を取ったような気持でいるように見える。「責任を取る」という言葉が大分安っぽくなってきた。

ガセネタメール
 今度の通常国会は安っぽさを地でいったようなものである。いわゆるメール問題である。民主党の永田議員(当時)が1つのメールを取り上げて、自民党の武部幹事長をつるし上げ、あわよくば政府を退陣に追い込もうしたものである。それにしては準備も情報の真偽の判定も杜撰極まりないものであった。ちょっと見ただけでおかしく見えるメールのコピーを信用して、国会の審議で相手を追及するなどということは、笊碁しか打てないくせに、プロを負かそうと、バレバレの嵌め手を使ったようなものである。そして偽メールがばれそうになったら体調不良で入院である。登校拒否児童よりもレベルが低い。その後は自己保身に汲々となり、言い訳に終始した。結局は民主党前原代表の辞任、執行部の総退陣になり、不承不承辞表を提出することになった。渡部新国会対策委員長の「政治家は武士だ」という気概はどこにも見られない。社民党の辻本議員の辞任よりも相当落ちる。

「責任を取る」とは
 辞任したことで永田氏は「責任を取った」ことになるのだろうか。そうとはいえない。責任を取るということは、その前提として役割や職分を想定している。永田氏には国会議員としての役割がある。国会は立法の府である。従って国会議員は立法に責任がある。自分が起案し、制定された法律が将来の日本にどのような影響を与えるかに責任を持たなければならない。卑しくもそれ以外のことで国会の時間を空転させるのは許されない。武部幹事長が法を侵していると確信しているならば、永田氏はそのようなことに国会の貴重な審議時間を使うのではなく、検察庁に告訴すべきである。法規違反は司法の役割である。国会は武部幹事長が法を侵しているのを司法が確認した時、議員除名、政府退陣をさせればよい。今回のようなことで国会を空転させているのを見ると何のために三権分立になっているのか分からない。しかも関係者は自分の責任は何かもわかっていない幼稚きわまるレベルである。永田氏のような人間が大蔵省エリート官僚として通用していたとは日本として恥ずかしい限りである。
 彼は責任を取ったのではなく、責任を取る資格もなかったから辞任すべきだったのである。責任を取るにはそれだけのレベルがなければならない。
 それにしてもこのようなことで国会の貴重な審議時間をつぶして大騒ぎしているとは、日本は平和なのか、それとも地震や津波が来るのも知らず、小雨を気にしている見通しのない集団なのか。

プロジェクト責任の曖昧さ

 プロジェクトの世界でも同じようなことは頻繁に起こっている。
 プロジェクトステークホルダーの役割と責任が明確になっているプロジェクトはどれだけあるだろうか。ユーザーの経営者、ユーザー母体部門管理者、ユーザー側PM、ベンダー経営者、ベンダー母体部門管理者、ベンダー側PMそれぞれの役割と責任ははっきりしているかどうか。また実際の活動を確認した上で、その役割を果たしているかどうかの評価をきちんとしているのだろうか。
 誰が何に責任を取るのかも曖昧なまま、実りのないやり取りと無駄作業を作っていることがしばしば見られる。そしてプロジェクトが破綻をきたしそうになるとスケープゴートを作って自分は逃げようとする自己保身の関係者は多い。スケープゴートにされ易いのはPMである。いわゆる子供の世界でのいじめられっ子である。PMはオタオタスルことなく、また自己保身からでもなく、プロジェクトを成功させるために、ステークホルダーにそれぞれの役割と責任を認識させるように行動しなければならない。関係者がそれぞれの役割と責任を共通に認識したときプロジェクトの成功はほぼ約束される。
 政治の世界でもプロジェクトの世界でも当事者は責任を明確に自覚し、気概を持って事に当り、執念を持って忍耐しつつも、事敗れたときは、出処進退を処するに潔くすべきであろう。
 余談になるが、永田氏は国会および政治家の品位を大きく落とした。しかし民主党に対しては図らずも貢献した。それは小泉自民党に圧倒されっぱなしでいながら、何ら手を打てず、まとまりもなかった民主党に危機感を与え、一致結束しなければならないという自覚をさせたことである。新しく代表になった小沢代表のこれからの動きは興味深い。その意味で永田氏はWBCで日本対米国の試合のとき、誤審をしたデビットソンの功績と並び賞されるであろう。デビットソンも野球というスポーツの品位を落としたが、日本チームを一つの目的へむけて有機的なつながりを持ったチームに変貌させた。