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プロマネの色眼鏡(8):「一人前」

加畑 長昭:5月号

 陽光が輝きを増し、木々が芽吹く4月、フレッシャーズが希望に胸を膨らませて街を歩いていく。彼ら、彼女らもプロフェッショナルを目指してその一歩を踏み出したのであろう。
 プロフェッショナルというと、いつも古くからの言葉 “一人前”、“職人技”を考える。

 “一人前”にはいろいろな基準があるが、江戸時代の農村では、十六貫(60kg)の柴を、三里(12km)の道を街まで運び、それを米三升(5.4リッター)と交換する、それが5、6人家族の一日の食料であった。それが出来るようになると一人前になったといわれた。二十貫担ぐと上男と呼ばれ、一目置かれたようだ。(注1)
 担ぐと言う基本的な動作について言えば、二十代の頃の私は、登山で20kgぐらい担ぎ上げていたが、今では15kgほどになってしまった。同時代の大学のワンダーフォーゲルでは30〜40kg、本格的な登山部でやっと60kgであったと記憶する。新田次郎の小説「強力伝」では、富士山の強力が白馬岳の頂上へ五十貫(約187キロ)もの“風景指示盤”を担ぎ上げたという。途方も無いことである。最近でも尾瀬を歩くと、時折出会うボッカは背負子で90kg近くを運んでいる。鳩待峠からの登山道が下りで、比較的整備されているからこのくらい担げるのだろう。北アルプスなどでも、生鮮食品と生ビールなどを担ぎ上げているボッカを時折見かける。コースによっても違うが、鎖場などがある道は30〜40kgほどであろう。昨年登った上高地から焼岳へ上る登山道では、鎖場のみならず梯子もあるので約30kgといっていた。江戸時代の男は60kgが一人前の男としての条件であったから、一人前になるということは大変なことであったと思うが、世間がそれを認知してくれるので、それだけに責任と自覚が生まれてきたのであろう。
 ついでながら、もう一つ江戸時代の体力の話を付け加える。東海道五十三次(493.7m)を庶民は十四、五日で歩いた。一日35km程度、急ぎの旅なら40kmは歩いたことになる。皆健脚であった。
 では、江戸時代の職人の世界はどうであったろう。丁稚から始まる徒弟制度では八年間親方の下で働き、一人前の職人技を身に着ける。その後一年お礼奉公をして自立が認められる。八年で一人前になれるわけである。丁度小学校と中学までの期間、仕事を教えてもらう事になる。多くの場合、見て覚えるのであろうが・・・。教えるほうの親方、主人にとっては、食い扶持は必要であるし足手まといになるから、一年のお礼奉公では元は取れなかったらしいが、技術を伝承していくと言う面でも、その様な社会制度が出来上がっていたわけである。一人前の職人は、ある意味では平等であり、人生を生き易い平和な時代であったのかもしれない。

 現代のプロフェッショナルな職人について、食の世界を例に二、三考えてみた。
 うなぎ屋は、「串打ち三年、裂き八年、焼き一生」といわれる。串打ちに三年、裂きの技術が一人前と認められるまでに八年というから、そこまで達するに十一年を要するわけである。その間に木炭の赤々と燃え盛る焼き台の前で、うなぎの焼き方も仕込まれる。極めてシンプルな行為である焼きは、その加減によりうなぎの風味を左右し、旨さが決まるから、「焼き一生」とは何時までも原点に返り初心を忘れるなと言う戒めでもあろうと思っている。
 寿司屋の場合も、七年から十年が目安という。入って一、二年は出前と洗い場、シャリ炊きシャリ切などの裏方の仕事をみっちり仕込まれる。それからのり巻きを習い、貝類の洗いやイカの皮むきなどの細かい仕事をさせてもらうようになる。三年目くらいでつけ台の中に入り、コハダやアナゴの仕込みを覚える。五、六年経つと魚も一通りおろせるようになる。マグロを扱うのは一番最後で、これがきちんとできれば技の面では一人前といえるようだ。すし屋の主人はまたつけ台の中からお客さんの相手もできなければならない。頑固さを売り物にしている店もあるが、気を遣いながら食べるすしなんてちっとも旨くない。ヒューマンスキル、人間力はどこへ行っても重要である。(注2)
 日本料理の調理師の場合はどうであろうか。私の実家は札幌で三代続いた割烹、仕出し「丸長」で、叔父はその主人であり、腕の良い料理人でもあった。若い時に京都と東京の料亭で板前の修行をしており、その時の様子を何回か聞いたが、劇画のようなドラマティックな話は無かった。しかし、私が子供のころの「丸長」には、何人かの若者が住み込んでいたし、ここから巣立った料理人が後年自立した後でも「兄さん」、「兄さん」と慕っていたから、一人前へ育てることも役目、責任と感じていたのであろう。和食の調理師の場合は厳しい序列がある。「真(料理長)」になるまでには、駆け出、見習いから始まり、盛付や下ごしらえ、向板(脇板)、煮方(脇鍋)と一つ一つの技を習得、それが認知されて立板となる。一人前になるにはやはり十年は必要であるようだ。ほぼ二昔前までは、中学卒業の金の卵が、それこそ丁稚奉公にも似た制度の中でそれを仕込まれてきたが、バブルの頃板前不足となり、また外食産業や奇をてらう創作料理などの流行でこの世界も大きく変わったと言う。
 専門職人集団としての蕎麦屋には古くから徒弟制度があった。どこかの店で年季奉公して、暖簾わけをしてもらう。老舗の暖簾の店数が多いのは、暖簾わけした店からさらに独立して、その暖簾の系図が広がってきたからである。(注3)また、蕎麦屋はいまやブームのきらいがあり、脱サラのそば好きが店を開き話題性で結構はやっている店もあるようだ。ただ蕎麦を打つだけ、蕎麦つゆもレシピに従って調整するだけなら、自己流で出来るからそんなに年季もいらないだろう。しかし素材を見極め、粉を吟味し、水を選び、その時の微妙な気象条件を考え、本当に納得のいく蕎麦が打てるようになるまでにはやはりそれなりの年季と経験が必要であろう。
 いずれにせよ日本の職人の世界はそれでも教えるという気持ちがあったような気がする。
 しかし、この食の世界でも最近は促成栽培の例も多くなってきた。日本料理を教える有名な料理専門学校が、多少費用はかかるが一、二年で卒業させ、調理師免許受験の資格を与える。免許制と言う技術以外の知識の資格が必要であるから致し方の無い面もあろう。但し一人前になるにはその後は料理屋で実地訓練が必要である。知識を学ぶだけではプロフェッショナルにはなれず、やはりオンジョブトレーニング、修行が必要というところか。もっとすごいのはラーメン塾で、数週間でラーメン店を開店するノウハウを伝授してもらう、というよりノウハウを購入するわけである。麺やブレンド済のスープなどは本部から送られてくるから、後はラーメンを茹で、盛り付けをするだけ。それで本当の意味で一人前の職人といえるかわからないが、店が繁盛すれば立派なプロ顔ができる。
 うなぎ屋の場合にしても、最近は白焼きにして後はたれをつけて焼くだけに調理したものも供給されているから、身近な定食屋などでも手軽に食べることができる。また輸入うなぎは、串打ちと焼きは機械化されているというが、さすが“裂きの技術”だけは機械が取って代われないとうなぎ屋がいっていた。寿司もただ握るだけなら寿司にぎり機の方が美味しい握り方をするのかも知れない。スーパーなどの寿司コーナーでは、寿司にぎり機が大活躍している。その様なことを考えていると複雑な気持ちになるが、本物の旨さは年季のへた職人のそれには適わないだろう。本物を見極めたいものだ。

 プロマネも、一昔前は徒弟的な側面があるとよくいわれた。まだマネジメントが手探りであった時代は、先輩のやり方を見て、教わって、自分なりのプロジェクトマネジメントを作り上げてきた。PMBOKやP2Mなど知識が整備され、システムが高度化された現在は、「徒弟的」という言葉は死語となりそうであるが、知恵の部分はやはり経験無しでは身に着かないだろう。それを効果的に身につけさせるためにも、親方としてのプロマネは、教えていく責務があると思っている。ただしプロジェクトに対する思い入れと熱意、プロマネの誇りなどの心の部分は伝承が難しい。それは受ける側の心の持ちよう、モチベーションであるから、本人の自覚を持つより致し方がない。馬を水辺までは連れて行けるが、飲みたいか否かは馬次第である。
 そんなことを書き続けていると「お前は一人前か?」と聞かれそうである。多くの建設プロジェクトをマネジメントし、部門のレベルアップにも注力してきたから、一人前であったと自負しているが、実のところプロフェッショナルといえる伝えるべき“マネジメントの技”に乏しい。改めて“一人前とはなんぞや”を考え自戒するが、経験を通して心の部分だけでも何とか伝えたいものである。
(2006.04.26)

(注1)一人前:例えば「若者と娘をめぐる民俗」瀬川清子著(未来社)
(注2)寿司職人:「寿司屋のかみさんとっておき話」佐川芳枝(講談社)
(注3)蕎麦:「蕎麦屋の系図」岩崎信也(光文社新書)