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ダブリンの風(36) 「計画は後ろからせよ(2)」

高根 宏士:3月号

 世界のIT先進国(日本ではない)といわれる国で、面白い出来事があった。ひとつの情報システム開発のプロジェクトが始まった。ユーザーはあるベンダーに発注したが、短納期のわりには、開発要件が多く、大きなリスクを感じていた。
 もちろんこのプロジェクトも受注に当って、ベンダーは絶対納期に間に合わせますと言っていた。そうしなければ受注できないのはどこの国も同じである。ユーザーはこのような言葉で何回も騙されているが、それでもこの言葉を聞きたがる。この言葉がないと発注を決断できない。男女間の騙し合いが長年続いているのとよく似ている。
 今回のユーザーは感じるリスクに対して素直であった。彼らはそのリスクを監視し、必要ならば時機を失せず、対応するために、これまでの付き合いで信用のあるコンサルタントを雇った。
 コンサルタントは早速ベンダーのプロジェクト現場に赴いた。現場は今回のプロジェクトのために大きなスペースを取り、環境も素晴らしかった。そこには予想外に多くの要員が配置されていた。ベンダーがこのプロジェクトを如何に重要視しているかを示していた。コンサルタントはベンダーの意気込みを感じた。そして配置された多くの要員の作業を覗いてみた。そこで思ってもいない光景に出くわした。要員の多くはコーディングをしていた。彼は今回のプログラムは新しい言語を使ってするために言語習得のためのコーディングかと思った。しかし言語は一般的に使われているものであった。そこでベンダーのプロジェクトマネジャーに「この時点でどうしてコーディングしているのか」と聞いた。プロジェクトマネジャーの応えは「今回のプロジェクトは短納期ですので、設計している時間がありません」とのことであった。コンサルタントは頭を抱え込んでしまった。
 全体システムのイメージやアーキテクチャー、サブシステム間インターフェース等がまだはっきりしていない段階で、あいまいなイメージのまま大量のコーディング作業に入って最後にどのようにシステムをまとめるのか、コンサルタントには見通しがなかった。ベンダーがイメージを作るためのプロトタイピングか、アジャイルのタイムボックスの概念からの作業ならば分かるのだが、それだったらこれほどの要員は必要ないはずである。
 コンサルタントはユーザーに「このままプロジェクトを進めていったら失敗します」という報告をした。
 これは落語やジョークのネタになるような話である。これほど面白い話ではないが、似たようなプロジェクトは周りに散見される。たとえば1年間のプロジェクトがあったとする。後ろから計画していくと先ずシステム移行に0.5ヶ月、運用試験および要員教育に2ヶ月、システム試験に2ヶ月、統合試験に2ヶ月、詳細仕様確定およびプログラム作成4ヶ月、アーキテクチャー等の基本設計に1ヶ月掛かるとする。残りは0.5ヶ月である。従ってこの0.5ヶ月でシステムの運用イメージ、要件定義をしなければならない。そのためプロジェクト計画をする暇もなく、あたふたとユーザーとの見通しのないミーティングに入り込む。そして0.5ヶ月はあっという間に過ぎてしまい、泥沼の折衝が続き、準備した要員を遊ばせないために、スペックの定かでないプログラムを作らせる。そして使い物にならないプログラムの資産の改修等、不毛の作業が続く。納期は大幅に遅れることになる。最後はユーザーとの間に根深い不信感を醸し出す。
 このプロジェクトは一見すると前回提示した「計画は後ろからせよ」を地で行っているように見える。システム移行からスケジュールの線を引いているからである。しかしこのプロジェクトには計画がない。設定されたスケジュールは計画ではなく、各フェースが陣取り合戦をし、後ろからわれ勝ちにと日程を取ってしまい、不足部分は最後の要件定義に皺寄せされる。
 前回の趣旨は要件定義には納得できる時間を掛けなさい、そして全体の工期からできる要件の範囲に要件を制限しなさいということであった。
 先ほどと反対の例が30数年前にあった。2年間のプロジェクトであった。その頃は70%程度の期間がプログラム作成に費やされるというのが大方の常識であった。ところがそのプロジェクトはシステムのイメージ作りに1年間を費やした。ベンダー、ユーザーとも内部から、あれでは納期に間に合わないと言う評判が立った。しかしユーザー、ベンダーのプロジェクト責任者はシステムのイメージ作りが最も重要であり、そこがしっかりしなくては、システムはできないという考えで一致していた。そして両責任者の上司はそれに対して、全面的な支持をした。プロジェクトは成功した。
 計画は後ろからせよということは、慌ててばたばたすることではなく、「はじめは処女の如く、終わりは脱兎の如し」という進め方ができるように当初段階で冷静に進め方を熟考することである。