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まい ぷろじぇくと (10)  あるミニ・プロジェクト

石原 信男:1月号

 突きあげられ、叩きつけられた、らしい。事態を知るすべもなく、振り回され、あたりが吠え、きしみ、食器の砕け散る音が重なった。
 1995年1月17日未明、阪神・淡路地方を襲った都市直下型大地震は、死者6千人、負傷者4万人、家屋の全・半壊20万棟を超える大震災となった。

 「本日早朝より営業致します」、被災お見舞いに続く思いもかけぬ文字に一瞬目を疑った。翌朝の新聞に載ったダイエーからのお知らせである。多くのサービス企業が当時競って喧伝していた「顧客本位」のすべてが、この「お知らせ」の前では口先だけのお題目のように私には思えた。この非常の際に広告など、と言えるほど余裕のある人は別である。「あそこに行けば何かが買える」という希望、こんな状況下でも自分達は決して孤立していなかったのだという安堵感、多くの被災者はライフラインも途絶えた中での一縷の光のようにこの「お知らせ」を受け止めたのではなかろうか。
 コープ神戸(生活協同組合)の素早い営業立上げも、深く心に残る。新聞の「お知らせ」は見られなかったものの、店頭には営業日時の連絡がいち早く掲示された。私も娘と共に開店を待つ人々の列にならんだ。「なにか食うものが手に入る」、この安心感が厳冬の寒さを忘れさせ、待つ人の穏やかな雰囲気と朝の陽ざしが心身を温めた。
 被災地を主な活動拠点とする両社は、いうまでもなく壊滅的な打撃をこうむった。JR「住吉」駅前のコープ神戸本部建物は崩壊した。供給者の意識が抜け切らない「顧客本位」がやたら目に付く時勢の、しかもこの困難な状況のさなかに、文字通り買い手中心の「顧客本位プロジェクト」を、生活必需品流通業の使命にそって見事にやってくれたのである。

 同じ頃、私の周辺でも一つの小さなプロジェクトが展開された。プロジェクトリーダーは妻、私が参謀役をつとめた。
 西宮山手のわが家はかろうじて持ちこたえた。が、市街に出てその惨状に言葉を失った。「避難所」に並ぶ「遺体安置所」の文字は、被害の甚大さを物語っていた。あまりのことに、個人の力もさることながら組織だった大きな力の支援が不可欠と感じた妻は被災者への栄養補給食品の提供を思い立ち、急遽上京して大手A社に無償提供を求めた。

 メディアではとらえようもない被災地現場のナマの音、熱、匂い、風、ほこりを肌で感じた人間と、テレビや新聞報道で被害状況の表面は見えるものの500kmもの距離をおく東京の人との交渉ごと、スレ違いは避けられない。A社いわく「売名行為と受け取られかねない」、「売名でもなんでもこの際いいではないか。多くの人が助かるのだ」。翌日A社の英断で3億円相当の栄養補給食品の無償提供が決まった。併せて社内からボランティアを募り神戸までの輸送もやってくれるとのこと。すべてが望ましい方向に進み始めた。
 でもこのプロジェクトは、これで終ったのではない。ここからが本当のスタートになる。

 西宮へ戻る途中、私たちは直面する次の課題への対応に苦慮した。
 1) 被災者に一刻も早く確実に支援物資を配布できる拠点さがし
行政の管理する支援物資集積所に入ってしまうと、混乱にまぎれて末端への配布がいつになるかわからないという懸念があった。
 2) 支援物資の最短時間輸送ルートの調査と走行可能の確認
阪神高速道路の倒壊、道路跨線橋の落下、河川道路橋の損傷などがあり、京都以東から被災地への車の乗り入れは迂回、渋滞で難儀をきわめていた。

 1)は、神戸市向け支援物資は妻の仲間で教会関係に強いコネを持つM夫妻のご協力を得て、トラック2台分を東灘区の教会と病院へ、1台を中央区の教会へ、もう1台を長田区の公園での現場配布。教会搬入品はボランティアの皆さんの手で避難所の被災者へ、病院搬入品はそこでの自家消費。長田区は搬入車両上からボランティアの人達による直接配布。西宮市向けは地元市会議員の協力で健康管理センターと福祉センターへトラック各1台ずつ。またA社の直接手配で1台を宝塚市へ。このように大筋がまとまった。なお芦屋市は市の意向もあって対象外となった。 
 2)は、口こみ情報と、道路事情に詳しいS夫妻の協力で進めた。まず道路地図のコピーに通行可能な道路を彩色明示し、東京発の輸送ボランティアチーム集結地となる京都のホテルまであらかじめ届けておく、ここまでの手はずを整えた。

 搬入場所に到着した支援物資の荷おろしには、被災地の人の手を借りる余地はまったく無いとの判断から、A社からのFAXで阪神間の関係者にボランティア参加を呼びかけ、多数参加の見通しも立った。
 支援物資を積んだトラックの京都以西の運行は困難を極めた。携帯電話に入る刻々の運行状況からも到着時間の予測はまったく立たない。「一日千秋の思い」とはこのようなものなのかを実感した。

 連日、西宮と神戸を往復したが、途中目にする自衛隊の救援活動には真に頭が下がった。飯盒炊さん、立ったままの食事、車両の上での仮眠、金沢駐屯地派遣の自衛官たちだ。A社からの支援物資は3億円相当の量だが、これだけの広域災害ゆえに配布が限られた地域に限定されるのは致し方ない、こんな割り切りが決断をうながした。私たちは支援物資からわずかな量を割いて自衛官たちのテントに届けた。被災者10人分の量を割いて10人の自衛官に使ってもらう、これで疲労困ぱいの自衛官達の体力がいくらかでも回復してさらに100人も200人もの被災者が救われるのでれば、こんな願いと感謝の気持ちを込めた瞬時の選択であった。私たち夫婦はこの選択を、時を経た今でも「よかった」と自負している。

 支援物資が被災者の手に無事届いたという一報が地元西宮の避難所から伝わってきた。このプロジェクトはここで終った。
 1週間に満たない短期間の緊急プロジェクトであったが、混乱することもなく目標を達成できた。これはひとえに動の妻、静の私、そして多くの協力者のスペシャリティ、これらが日常培われてきたヒューマンネットワークのもとで瞬時に有機的なまとまりを見せた結果である。プロジェクトマネジメントの一つの望ましい形をここに見た思いがする。
 もしも支援物資のA社提供が決まった時点で「ああよかった あとはおまかせしよう」と腕をこまねいていたらプロジェクトの目標達成はおぼつかなく、そしてA社の好意は無に帰さないまでも半減したであろう。支援物資を疲労の極限に近い被災者の手に早く確実に届ける、これが本プロジェクトの揺るぎない目標であった。とはいえ、支援物資提供の確約を得ることが本プロジェクト遂行のカギであることは言うまでもない。しかし、これは目標達成のためのフロントエンドにおける一つのアクティビティであり、プロジェクトの成功裡完遂を確約するものではない。
 このプロジェクトへの私の思いは深い。かつて身を置いたプラントビジネスの領域を超えたきわめて身近なところで、プロジェクトマネジメントの本質を自分の手で引き寄せる機会に出会えたからである。

 ここで阪神・淡路大震災にこだわるつもりはない。だが、この地震は私のプロジェクトマネジメント観までも揺り動かした。私たちの動きも含め、災害復旧・復興にかける市民の努力と願い、行政のあるべき姿、全国から寄せられた救援・支援、地元企業の対応など、多くの事象が「プロジェクト」として私の思考をゆさぶったのである。そして、プロジェクトとは、プロジェクトマネジメントとは、を自分自身に問いかけることになる。
 結果として、私の「プロジェクト観」は広がり深まった。社会の事象の多くを「プロジェクト」の切口から観察し、分析し、評価する、いうならば物事の本質に迫る道筋、これが以前にも増して良く見えてきたということである。

 1980年代の第1次プロジェクトマネジメント・ブームの周回遅れで、いま日本は第2次プロジェクトマネジメント・ブームのさ中にある。 そして一部では第1次PMの流れをKKD(経験・勘・度胸)のマネジメントとして蔑む風潮がないとはいえない。 非論理的で、主観的で、独善的だということなのであろう。 私としてはこれに異論を唱えるつもりはないものの与するものでもない。
 だが、この阪神・淡路大震災で体験し見聞した多くの事象は、それがKKDの範疇に属するものであったとしても私のプロジェクト観の確立にプラスとなったのは確かである。
 事にあたりただちに対応するには、早期にどれだけの数の選択肢を案出できるかが重要な決め手になる。実践の場では他から選択肢が与えられるといった贅沢や甘えは許されるものではない。複数の現実的な選択肢を自ら案出し、それらの長・短所を相互比較して全体最適を見出し決断するといった創造性こそが、プロジェクトの目標を達成するに欠かせないヒューマンスキルといえる。それがKKDであったとしてもその本質はゆるがない。
 私たちの「小さなプロジェクト」は、このことをしっかりと体験させてくれた貴重なプロジェクトであった。

追記:
 阪神・淡路大震災からすでに11年が経過しました。全国から多くのご支援をいただいたことに被災地の一住民としてあらためて感謝の気持ちをあらわしたいと思います。 ありがとうございました。
 (本稿は2004年6月に私のウエブサイトに掲載したものに手を加えてここに再掲したものです)。

 次回も身近な まい ぷろじぇくと について考えます。ご期待ください。