先月号 次号 高根宏士 :11月号

快  晴


今日の日曜日は快晴である。見渡す限り雲はなく、きれいな青空である。雪をかぶりはじめた富士山が気高い姿を見せている。風もなく、暑くもなく、寒くもない。眼にも肌にも心地よい。朝会う人毎に「今日は良い天気ですね」という挨拶になる。ゴルフの好きな人に会うと「ゴルフ日和ですね」と言う言葉が返ってくる。このような日は1年のうちでも数日しかない。自然が時に与えてくれる滅多にない快感の瞬間である。
 このような快感は我々の日常の仕事や生活ではそんなに多くはない。しかし時々はある。例えば困難なプロジェクトを仕上げ、目的のシステムが順調に稼働を始めたときなどはその瞬間であろう。衛星が打ち上がって軌道に乗った時、プラントが音を立てて動き出し、最初の製品が滞りなく出てきた時などはその例である。そして客先が心から喜んで「有難う」と手を差し伸べてきた時にその快感や感激は最高になる。
 プロジェクトでなくても、野球やサッカー、ゴルフなどで、困難な戦いの後の勝利の瞬間、数学で困難な問題を唸りながら考え、やっときれいな解法を見つけたときなどもそうである。
我々の周りには少ないけれども時にキラッと光るように快感や感激を味わう瞬間は必ずある。この「瞬間」には、自然が与えてくれる場合と自分が苦労して獲得する場合の二つがある。自然が与えてくれる快感は天や神の御心のままに任せなければならない。快晴の天気などはそれである。これは運である。運がよければその瞬間に会えるし、悪ければ会えない。
 苦労して獲得できるものにはプロジェクトの成功やスポーツにおける勝利、困難な問題を解決した瞬間がある。これはその人の苦労が大きければ大きいほど快感や感激も大きくなる。
 快感や感激は一瞬である。自然から与えられた場合はその瞬間、その時間だけが記憶される。しかし苦労して獲得したその瞬間の記憶は違う。その快感、感激を味わった瞬間に、それを獲得するために費やしたそれまでの労苦が、費やした時間の長さだけ、快感の記憶になる。従ってどんなに苦労した時間が長くてもその時間は、その後全て快感の時間となって記憶される。自分で得た快感はそれに費やした全ての時間を快感の時間としてしまう。そしてそれは忘れることのない事象として記憶される。この記憶の量が多いほど人生は豊かになる。そして周りの人達が同じ経験を共有すればするほど豊かな社会になる。
 豊かさは知識や見聞や金や贅沢さではない。また遊びの量や旅の距離ではない。ましてやそれらの他人との比較におけるものではない。快感や感激として思い出される記憶の中の時間の量である。この量を増やすチャンスは物事に対して自分から主体的に飛び込むこと、主体的に受け止める姿勢がポイントである。直面する課題に対してチャレンジする精神と自分の環境を受容する悟りと将来を志向する忍耐が基本である。
 見掛け上(一般的には物質的、経済的、便宜的)の豊かさを豊かと錯覚した社会には殺伐とした風景とぎすぎすした触感だけが蔓延し、瑞々しい感覚や快晴のように爽やかな風景はどこかに押しやられ、見えて来ないであろう。