図書紹介
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乱歩と千畝  RAMPOとSEMPO
(青柳 碧人著、(株)新潮社、2025年6月30日発行、2刷、378ページ、2,200円+税)

デニマルさん : 12月号

今回紹介の本を選択する過程で歴史的なハプニングに遭遇した。それは2025年7月16日の新聞報道「芥川賞と直木賞、27年振りの該当作なし、『何かが足りず、拮抗』」が全てを物語っている。このハプニングの詳細内容は「第173回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が都内で開かれ、いずれも該当作なしに決まった。両賞とも受賞作が選ばれなかったのは、1998年1月の第118回以来、27年振りで史上6度目だった」とある。芥川賞の場合は、2011年7月の第145回以来の14年振りで、選考委員の川上弘美氏は「芥川賞には何らかの新しい試みや視点をもたらしてほしいという意見があった」とした上で、「今回候補になった4作は、それぞれに心引かれるものがありながら、何かが足りなかった。選考委員としても、受賞作を出せなかったのは残念です」と語っている。一方、直木賞は2007年1月の第136回以来の18年振りに受賞作が出なかった。この点について選考委員の京極夏彦氏は「今回の候補6作のレベルが拮抗しており、突出して高い評価を集めた作品がなかった」と語り、「どれか一つを選ぶわけにはいかないというところに選考委員全員の総意として落ち着いた」と経緯を説明した。更に、現況の出版業界の不況下で書店の売り上げへの影響を尋ねられると、「これほど拮抗した作品である以上、どれも読者に届く作品。候補作になったということだけでも面白いことの証左です」と心境を話した。ここまでが今回紹介する本の選択に関する前段の話である。筆者はこのコーナーで毎年芥川賞か直木賞の本を紹介すべく、選考作品が公表された段階から勝手に予想を楽しんでいる。今回の場合、芥川賞はパスして該当作品はナシとした。直木賞については、6作品から全く個人的な好みで選定しました。従って、紹介の本は一読者が勝手に選んだ「傑作」ということでお付き合い頂きたいと思います。本書の概要は後述しますが、乱歩とは江戸川乱歩(推理小説家)と千畝とは杉原千畝(外交官)で、この二人の著名人が歴史上で接触したならというフィクションである。しかし、物語に登場する人物は実在した方々が多数出て来て、ノンフィクション的な歴史を感じながらストーリィを楽しめる内容である。著者をご紹介しましょう。青柳碧人(Aoyagi Aito)氏は、1980年千葉県生れ。早稲田大学卒業。2009年『浜村渚の計算ノート』でデビュー。2020年『むかしむかしあるところに、死体がありました』で第17回本屋大賞にノミネートされ注目を集める。主な著書に、『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う』(Netflixで映画化)『名探偵の生まれる夜 大正謎百景』『怪談青柳屋敷』『令和忍法帖』『オール電化・雨月物語』のほか、「西川麻子シリーズ」「猫河原家の人びとシリーズ」等。

乱歩(RAMPO)とは?            江戸川乱歩(作家)
本書の表題「乱歩と千畝」は先にも紹介の通り、江戸川乱歩と杉原千畝の二人の波瀾万丈の人生を描いた物語である。先ず江戸川乱歩と言えば、推理小説家として知られている。ペンネームの江戸川乱歩は、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーに由来していることと、何故か引越しが多く生涯で46回も転居した話は有名である。さて、江戸川乱歩の作家デビュー作は『二千銅貨』であるが、『D坂殺人事件』は30歳を過ぎた頃の作品である。有名な明智小五郎や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』の人気シリーズが発表されたのは、1936年(著者が38歳)以降である。その後、数多くの探偵小説を世に出して、日本の推理小説分野を独立した文学ジャンルとして確立し、後に日本推理作家協会の初代理事長となり、推理小説界に絶大な影響を与えた。出生を調べると、1894年(明治27年)に三重県名賀郡名張町(現・名張市)で生まれ、本名は平井太郎。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て早稲田大学政治経済学科を卒業後、会社員や古本屋など様々な職業に従事して、小説家となった。1965年〈昭和40年〉にお亡くなりになっている。(享年71歳)

千畝(SEMPO)とは?            杉原千畝(外交官)
次に千畝(SEMPO))であるが、正確には杉原千畝(すぎはらちうね)である。杉原千畝といえは、第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民のために“命のビザ”を発給した日本の外交官として知られている。そのビザ発給は約6000名とも言われている。また同じ様に多くのユダヤ人を救ったドイツの実業家シンドラーに由来して「東洋のシンドラー」として海外では高く評価されている。しかし、当時の日本では余り公表されず外務省内部での評価は悪く、杉原が終戦後日本に帰国して退職勧告を受けて退職している。出生は1900年(明治33年)に岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)で生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て早稲田大学教育学部英語科に入学後、外務省留学生試験に合格の為に中退。以降英語とロシア語に精通し、リトアニア共和国等の外交官を務める。晩年の杉原はロシア語が堪能であった関係で、貿易会社や商社(モスクワ所長)にも務めた。1986年〈昭和61年〉に逝去されている。(享年86歳)当時、この訃報に接した“命のビザ”で生き永らえた子孫や関係者は、杉原の死を悼み日本政府へ抗議している。外務省が名誉回復を図ったのは、死後14年後の2000年10月である。

乱歩と千畝の関係は?             二人が交わる歴史
本書では、冒頭に二人の出会いから始まっている。先の二人の経歴から高等学校と大学が同じであったことが二人を引き合わせている、しかし、両者の年齢が6歳も離れているので学校での交流はないが、早稲田大学近くの蕎麦屋で偶然に同席したキッカケで物語がスタートする。大先輩の乱歩(当時は平井太郎)がカツ丼、後輩の千畝がかけソバを食べ、先輩が外交官募集広告を紹介したことから外交官への糸口を掴む。一方乱歩は、ヒット作に恵まれない頃であった。それから多くの時を経て、2025年が乱歩と千畝にとってメモリアル年である。江戸川乱歩が没後60年。一昨年がデビュー100年で昨年が生誕130年となっている。一方の杉原千畝は、「命のビザ」発給から85年を迎える。この二人の歴史的な交わりの背景に太平洋戦争がある。日本の近代史と二人の人生が重ねられた歴史的なドラマでもあった。

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