グローバルフォーラム
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「グローバルPMへの窓」(第189回)
60年ぶりの南米旅行――プロジェクトマネジメントで考える その3

グローバルPMアナリスト  田中 弘 [プロフィール] :10月号

 本号では、本旅行の実施段階について報告する。順番は、1)旅程概略、2)達成できたこと、3)ハプニング、4)アルゼンチンとチリ寸描、5)プロジェクトマネジメント的振り返り、とする。

1) 旅程概略

月日 曜日 訪問都市 滞在地・活動
 2025年
 7月21日
 羽田→パリ  空路移動(14時間30分)、空港ホテル・トランジット泊
22日  パリ→ブエノスアイレス  空路移動(16時間)
23日  ブエノスアイレス  都心官庁街
24日  ブエノスアイレス  ホテル移動 下町Belgrano地区
25日  ブエノスアイレス  ブエノスアイレス市内見学
26日  ブエノスアイレス  休息
27日  ブエノスアイレス→コルドバ移動  空路移動(5時間)コルドバ市中心部
28日  コルドバ  元研修生・酪農経営者取材
29日  コルドバ  休息
30日  コルドバ  コルドバ市内見学
31日  コルドバ→サンチャゴ移動  空路移動(5時間)サンチャゴ空港トランジット泊
 8月1日  サンチャゴ→ラ・セレナ移動  空路移動(3時間)
 ラ・セレナ市は豪雨で洪水、市内通行止め
 元研修生・鉱山会社サステナビリティPDインタビュー
2日  ラ・セレナ  コキンボ港・コキンボ市見学
3日  ラ・セレナ→サンチャゴ→メンドサ移動  終日空路移動(8時間)
4日  メンドサ→ブエノスアイレス移動  メンドサ景観地区見学、空路移動(4時間)
5日  ブエノスアイレス→パリ移動  ブエノスアイレス中心部見学、空路移動(16時間)
6日  パリトランジット泊  空路移動(前日より)
7日  パリ→アムステルダム→成田移動  空路移動(20時間)
8日  成田着(午前)  空路移動(前日より)

計画通り、7月21日羽田発、8月8日成田着で予定工程を全うして帰国した。7月31日から8月8日までは、一日を除き、空路移動が続く強行軍であったが、無事乗り切った。

2) 達成できたこと
  • 期待以上の大変楽しい旅となった。60年前の忘れもの(再び南米の地に戻る)を無事取り返した
  • 本旅行プロジェクトのミッションステートメントで掲げた、# 60年の時を経て筆者のグローバル活動の原点である南米の地を訪問する、 # アルゼンチンとチリの人々と交流し、両国の社会・経済情勢を実感する、# スペイン語の精度を上げる、#アルゼンチンとチリを十分に楽しむ、のすべてを達成できた
  • 旅行の日程は、チリのラ・セレナ市(ツイン都市のコキンボ市と合わせて人口70万人)で到着の8月1日に20年ぶりの豪雨で街が洪水となり、排水が完了するまでの1日動きがとれずに活動が順延となった以外は、全て予定通り進めることができた。航空機の遅延も最大60分程度で、吸収できる範囲であった。
  • コストも予算150万円に対して、合計148万円で収まった。
  • リスク項目は、対策をしっかり立てたが出現はなかった。特に体力・健康面はある種賭けのような要素があったが、無事乗り切った。

3) 遭遇したハプニング
  • 往路7月22日、パリ・シャルルドゴール(CDG)空港で、エールフランス ブエノスアイレス行きフライトに搭乗しようと約3時間前にターミナルEに到着したが、すぐに空港スタッフからアクセス通路に避難するように指示を受けた。ターミナル内で旅客の放棄荷物が見つかり、当局の特殊部隊による検査の結果不審性が高く、荷物を爆破して営業再開(所要60分)。テロ未遂(らしい)の放棄手荷物事件は6年ぶりとのこと。これによるフライトの出発遅れはランウェイの割り当て再調整で60分程度であった。筆者がフランスの大学院通いをしていた2010年代中盤にフランスで断続的なテロが起き、筆者自身もニアミスに3回くらい出会っているので、フランス人同様、動揺しなかったが、旅慣れない人であると出鼻の恐怖は強かったであろう。
  • 7月30日アルゼンチンのコルドバ市に滞在している時、マグニチュード8.9のカムチャッカ沖地震が発生し、津波への警戒から、これから訪れるチリの沿岸部住民約200万人に高台への避難命令が出た。大変なピンチで、避難命令が続くとチリ訪問はサンチャゴから引き返さざるを得なかった。31日夜になると津波の襲来の可能性が低くなり、当局は避難命令を解除しなかったが、ラ・セレナ在住の友人の情報では、実態として市民は通常生活に戻っているとのことで、ラ・セレナ訪問は予定通り進めることにした。しかし、8月1日首都サンチャゴからラ・セレナへの早朝のフライトに搭乗してスマホでニュースを見ているとラ・セレナ市で20年ぶりの豪雨で中心部が洪水に見舞われているとのこと。ということはラ・セレナからコキンボに至るビーチロードも通行禁止で、今回の一番の目的であるコキンボ市を訪れる道は閉ざされたかと思われた。しかし、筆者の執念を知ってか、神は見捨てなかった。8月2日になると快晴で、洪水も引き、快晴で道路はみるみる乾いて、コキンボ訪問は無事実現した。
  • 今回の旅で最大の難関は、8月3日、ラ・セレナ発サンチャゴ空港で国内線から国際線に乗り換えてアルゼンチンのメンドサに至る行程のうち、サンチャゴ空港での乗り継ぎであった。乗り継ぎ時間は2時間で、荷物の引き取りとチリ出国手続きがあるのに、国内線のターミナル出口と国際線ターミナル入口は歩行距離で500メートルくらいあり、旅の後半で体力が落ちている時であるので、これはアウトかと、乗継便の代案を考えることが頭をよぎったが、それまでの行程でシニアアシスタンスの要否を尋ねられたことを思い出して、シニアの旅の切り札を使った。エアラインには、お手伝いを必要とする人の優先搭乗と搭乗補助制度があり、どの空港でもエアラインに事前にあるいはチェックイン時に申し込むことにより無料でサービスを受けられる。このケースでは出発空港のラ・セレナでシニアアシスタンスを申し込んでおいたら、サンチャゴ空港の降機口で車いすを用意したスタッフが待っていてくれ、やたらと長い荷物の受領エリアまでの通路を通り、スタッフは途中国内線担当から国際線担当に代わったが、ターミナル間の移動や、国際線チェックイン、出国手続きを終えて搭乗ゲートまで車いすで運搬してくれた。途中、出国手続きで、立とうとしたら、スタッフに制止された。シニア補助サービスは、ブエノスアイレスの国内線空港でも、飛行機が沖停めとなり、タラップを伝わって8キロの荷物を持って降りようとした筆者はCAに制止され、他のシニア客と一緒に水平昇降装置がついた箱車に乗せてもらって楽に手荷物受領場まで運んでもらった。いずれも旅の後半で疲労が溜まってきた時期であり、大変助かった。両空港のスタッフの方、大変有難うございました。
  • 4件目は開かなくなった金庫事件。シティホテルの部屋には金庫がある。ラ・セレナのホテルで、パスポートと第1財布を入れた金庫が開かなくなった。それまでの行程でも金庫は使ってきたが、使用前には必ず閉→開のステップの確認を行ってから本番使用する。このホテルの金庫は動作確認の際に多少ひっかかるような感触があったが、閉じる→開けるはできたので使用した。金庫から内容物を取り出す段になって、所定の動作をしたら、OPENの表示は出るのだが、すぐ後にERRORコード表示が表れ、金庫は開かない。10分くらい格闘したが、埒があかない。フロントに飛び込んだら、金庫の鍵開けのエキスパートの年輩の女性を呼んでくれた。黒い衣装をまとい、鍵の束を腰に付けた魔法使いのような人だ。プロがやっても金庫は開かなかった。次にプロだけが知る特殊な穴からの開錠を試みたがまだ開かない。次は持参した15本のマスターキーを使ったが、手応えがなく、30分くらい経過した。そこで次の手を実施したら無事開いた。何をどうしたのかは暗いこともあって分からなかった。小さなホテル地区で、この女性がホテルの近所に住んでいたので、時間がかからずに解決できたが、そうでなかったらとぞっとした。

4) アルゼンチンとチリ寸描
❖ 経済

いずれも南米最南端に位置するアルゼンチン共和国とチリ共和国は旧スペイン植民地でスペイン語を国語とする、そしてヨーロッパ諸国からの移民の子孫が国民で、文化も完全にヨーロッパ文化である点は同じである。ただし、アルゼンチンがイタリア系とスペイン系で85%くらい占めるのに対して、チリはスペイン系が主力だがドイツ系も多く、その他中部ヨーロッパや東欧系もいる。しかし、経済を支えるのはアルゼンチンが穀物、大豆、牛肉、自動車、天然ガス、チリが鉱産物、農産物、工業製品だ。特に、チリの銅は世界有数の産出量を誇り輸出の主要な割合を占めているなど、経済構成が異なる。GDPはアルゼンチンが6,333億US$ (2024年 世界銀行)、1 人当たりの GDPは 13,858US$ (2024年 世界銀行)、チリのGDPは3,303億US$(2004年 世界銀行)、一人当たりGDPは17,093US$と、経済規模ではアルゼンチンはチリの2倍近くあるが、一人当たりGDPではチリが大きくリードしている。

20世紀には、両国共に激しい政争や17年(チリ)と7年(アルゼンチン)の軍事独裁政権による恐怖政治を経験したが、軍政を脱した後の政権の施政方針で違いがでた。チリは1970年から1973年までの世界で初めて民主選挙で誕生したサルバドール・アジェンデ社会主義(共産党)政権とこれを米国CIAの支援で倒したピノチェット軍事政権は1990年まで続いて国として社会開発や経済発展に大きな停滞があったが、民政移管後の官民一体となった努力と日本人に似た勤勉な国民性で産業発展に務めてきた。アルゼンチンは第一次世界大戦当時一人当たりGDPが世界一位でありながら、1940年代からアルゼンチンの社会を支配してきた「ペロニズム」と称する民衆を基盤とする政治運動と1976年から1983年の軍事独裁政権で経済は停滞して、国の財政は危機的な状況で悪化し、100%から200%超のインフレが常態となっていた。ぺロニズムは社会正義の実現を最大の目的とし,弱者救済,不平等の解消をめざすポピュリズムの一形態である。

しかし、2023年12月に大統領に就任したハビエル・ミレイ(Javier Milei)氏は自由経済学者で極右思想を有し、アルゼンチン財政・経済再生に大ナタを振るい、就任1年半でインフレ 率を2023年の221%から現在の43.5%までひき下げ、財政の立て直しと海外からの投資の復活でアルゼンチンの経済は復活の途にあり国家統計局が25年7月31日に発表した2024年下半期の貧困率は38.1% と上半期の52.9%から大幅に低下した。しかし、「調整と経済改革」という政策は反面、弱者の切り捨てを伴う。

追記で、9月7日に実施されたブエノスアイレス州の州会議員選挙ではミレイ大統領の与党連合が進歩党(ペロン党)に14%の大差で敗れる波乱があり、ペソの対ドル相場が18%下落し、上場資産が約1割下落した。報道の論調では、ミレイ政権の社会調整、経済改革路線に大きな痛手であるとしている。

❖ 社会

アルゼンチンの社会は人生を楽しむためにできているような側面がある。筆者はアルゼンチンの危機的な貧困率を認識しながらブエノスアイレスを訪れたが、そこで目にしたのは街にあふれる多数のカフェとそこで優雅にくつろぐ市民の姿であった。カフェ無くして生活は成り立たないのは本当の話である。また、上記のように、雇用機会が回復して貧困率が減少した時期であるので、カフェにも活気が少し戻ったのかもしれない。 大都市のアルゼンチン人は男女ともに格好いい。彫りの深いスペイン系よりイタリア系がはるかに多く物腰が洗練されている。

年金生活者と反政府派によるデモ ミレイ政権が行ったことは、何十年も垂れ流しになっていた公共支出の半減で、そのしわ寄せは公共サービスの削減につながり、年金生活者に大きな試練となっている。今回アルゼンチンでは、60歳代後半から70歳代後半で現役で働いている人達と何度も話す機会があったが、年金額は減る一方で食料品補助や医療費補助の大幅削減で、働いていて手元現金がないと生活の不安が大きいということであった。ブエノスアイレスに着いた翌日、ホテルが中心部の
大統領官邸に通じるマヨ(五月)通りにあったが、午後、年金生活者と反政府派によるデモが大統領官邸に向かって進んでいるのを見た。あとで聞いた話では、毎週水曜日の午後がデモの日と決まっているのだそうだ。

郊外のホテルに宿泊している時に近所のミニスーパーに何回か出かけたが、レジでは籠一杯の商品を一端レジに持参し、代金計算の途中で、予算に照らして買うものを再度吟味する主婦の姿を何回か見かけた。生活苦が滲み出ている。あとに並ぶ人たちは文句を言わない。しかし、スーパーに来られる人は良い方で、国民の3割くらいはその日の暮らしにも困る人達である。

チリでは庶民と接する機会がほとんどなかったので、社会について客観的に語ることはできないが、現職の左派ボリック大統領の評判は良くなくて、10月の大統領選で保守派と交代の声が強そうだ。また、住みやすく治安がしっかりしているので、ベネズエラを中心に北部の中南米諸国からの移民が年々増えてチリ国民の社会保障費の負担が増えている不満がある。また、チリの本年は冬季に大雨が多く、地盤が緩んでの事故が多発するなど日本と同じような災害に悩まされている。

❖ ブエノスアイレス

1966年3月、筆者がペルーのリマからアンデス山中を旅してブエノスアイレスに到着した際の都市の規模と美しさについて驚きは一入(ひとしお)であった。戦前世界有数の豊かな国であったアルゼンチンは農産物輸出で稼いだ富でフランスのパリと同様な首都をと、作ったのがブエノスアイレスである。その美しさは健在であった。ブエノスアイレスの中心部は、パリ同様石造りのファサードと統一された窓、鉄細工のバルコニーが特徴の街並み、芸術性の高い文化建造物、街のあちこちにあるカフェやレストランと、旅人にはあまりに魅力的である。また、中心部をちょっと離れるとパリにはあまりない緑豊かで水辺がある大きな公園が多数あり、市民の憩の場所となっている。人口は都心部(ブエノスアイレス特別市:CABA)が320万人、大ブエノスアイレス都市圏で1400万人。

今回の旅では、中心部のプラサ・デ・マヨ(5月広場)近辺、都市西端の下町的雰囲気があるベルグラード地区、中心部に戻り表参道のようなファッショナブルなパラグアイ通りに宿泊したが、三様の面白さがあった。

ブエノスアイレスでどこを訪れるかは旅行者の興味によるが、街の主だった名所を訪れようとすると毎日観光に当てても4日くらいはかかる。筆者は、膝の関節症で歩き回ることができないので、タクシーを貸し切り、空港ピックアップで親しくなったガイドを兼ねる運転手さんに相談しながら、思い入れがある7か所を廻った。

Plaza de Mayo (5月広場): 1810年、植民地支配していたスペイン軍に対してアルゼンチン国民が蜂起した広場で、現在は広場の北に面してCasa Rosada(大統領官邸)があり、広場の反対側には、アールヌーボー調やアールデコ調の格調の高い建物や大聖堂がある。1810年というと、ヨーロッパでは、ナポレオンがモスクワ遠征を行ってモスクワ征圧を宣言したが、クズネッツ将軍率いるロシア軍の反撃に遭いたった一週間で撤退した頃である。

River Plate Monumental Studiumと CABJ (クラブ・アトレティコ・ボカジュニアーズ) Bombonera Studium: アルゼンチンのサッカーファンを二分するリーベル・プレートとボカ・ジュニアーズのホームスタディアム。7万5千人と5万人収容。1965年にチリのアントファガスタでリーベルと地元チームの試合があり、現地の方に連れて行っていただいたが、当時は世界的なチームとは知らなかった。

Recoleta地区、Palermo地区: ブエノスアイレスの超高級住宅地かつ文化地区でパリを手本に作った。瀟洒な豪邸、ブティーク、広い公園がある。また、世界一豪華と思われる歴史上の人物の墓地がある。

San Telmo マーケット: 元々は野菜類を中心とした本当のマーケットであったが、現在は観光客向けのグルメ街となっており、価格は街のレストランの2倍程度であった。アルゼンチン最高級のステーキ、エンパナーダ、スイーツの店が連なる。

La Boca地区: 旧ブエノスアイレス港に面する地区で、アルゼンチンタンゴの発祥地、アルゼンチン・サッカーの発祥地とされる。有名なCaminito (小径)は数百メートルの通り全体がアートギャラリーとなっており、観光レストランとカフェが連なる。値段は観光客向けで高い。

Puerto Madero: 港湾地区を再開発したウォーターフロントのビジネスエリアで、高層ビルが立ち並ぶ。洗練された雰囲気の中、高級レストラン、カフェ、博物館、そしてタンゴをイメージした「プエンテ・デ・ラ・ムヘール(女性の橋)」などの観光スポットがある。

❖ メディアルーナ、エンパナーダ、ミラネーサ、ピザ、アサ―ド、チョリパン

いずれもアルゼンチンの国民食である。(Media Luna) は三日月の意味でクロワッサンの生地に砂糖を練り込んだパンで、朝食の友であり、三時のおやつの定番である。エンパナーダは南米南部定番のパイで、小麦粉のパテに牛肉・ポテト・トマト・ゆで卵、焼き野菜、ハム+チーズなどを包み焼きした食べ物で、持ち帰りでのおやつやカフェのお供として愛されている。60年前の南米遠征では、懐にやさしいエンバナーダばかり食べていた。

ミラネーサはスパゲッティではなく、衣の薄いビーフカツであり、そのまま食べるか、サンドイッチにして食べる。肉が鶏のもある。サイズは日本の2.5倍くらいある。

アルゼンチンで最多人種はイタリア系(6割)で、ミラネーサと並んでピザは値段が手ごろの国民食である。安いうえに量が半端でない。最小のピザをオーダーしても食べ切れなかった。

アサ―ドは、これぞアルゼンチンという炭火網焼きのステーキで、2回食べたが、人生で経験した最高のステーキであった。ステーキの大国米国やブラジルの人達がこのステーキを求めてアルゼンチンに来るのがよく分かる。

チョリパンとはソーセージ(スペイン語でチョリソ)を挟んだサンドイッチで、これも日常食である。なお、アルゼンチンには魚介類を食べる習慣は殆ど無い。牧草地が広大で畜産物が豊富で安価であるので肉食文化が支配している。

❖ コルドバ(Córdoba)

コルドバは、ブエノスアイレスから大平原な農作地・牧草地パンパ(La Pampa)を西北西に横切り700kmに位置する。人口は都市部で約150万人で、ブエノスアイレスに次ぐ第二の都市である。筆者がコルドバで4日間の滞在を選んだのは、今回の行程で訪れたことがない唯一の都市であるコルドバへの興味、アルゼンチンの古都的な中規模都市で、休養と、割合狭い範囲で伝統と近代性が入り混じった街を楽しめるということであった。また、アルゼンチンの日系人が一番多く、筆者が教えた元研修生も複数名いる。

筆者は空路で来たが、長距離バス(12時間)や鉄道(19時間)も発達しており、庶民はバスを選ぶであろう。ブエノスアイレスはフランスやイタリアの影響が強い街並みであったが、コルドバはスペイン植民地時代の面影が強い(ただし、住民の半数はイタリア系のようだ)。

カトリックのイエズス会が早期に入植した地であるのでイエズス会伝道所や聖堂が街角に散見する。国立コルドバ大学は、ペルー リマにある国立サンマルコス大学(筆者が比較法学の夏期講座を修了した)に次いでアメリカ大陸で2番目に古い大学である。

❖ 雪のアンデス山脈越え

今回、往路アルゼンチンのコルドバからチリのサンチャゴへ、帰路サンチャゴからアルゼンチンのメンドサへと2度アンデス上空を飛行した。アンデス山脈は、南アメリカ大陸を南北に縦断する全長約7,500kmの世界で最も長い山脈で、今回上空を飛んだ国境にあるアコンカグアは最高峰で6,961メートルある。60年前に体力も時間もあった筆者は、メンドサからサンチャゴへのアンデス越えバスの旅を楽しみにしていたが、早春の雪解け水で道路がかなりダメージを受けたとの報に陸路を諦め、人生初めての空路でのアンデス越えとなったが、今回は初めから空路を選択した。フライトの窓からはアンデス山脈の雄姿は見えなかったが、往復とも上空ではかなり揺れた。

パリからのエールフランス機にはスキーブーツを持ったフランス人の若者が何名かいたが、両国の国境近くには雄大なゲレンデがあるそうだ。

❖ ラ・セレナ&コキンボ市(La Serena & Coquimbo)

1965年ペルーのリマに向けてひたすら北上したパンアメリカンハイウェイ(至テキサス)
1965年ペルーのリマに向けてひたすら北上したパンアメリカンハイウェイ(至テキサス)
 今回の南米旅行の最終目的地は首都サンチャゴから北470キロにあり、アタカマ砂漠の入口にあたるラ・セレナ市と隣接するコキンボ市である。なぜ最終目的地かというと1995年5月、学部4年生の中南米研究調査で、日本の八幡港から鉄鉱石運搬船で26日の海路の末に上陸したのがココンボ港であり、筆者にとり初めての外国で、その後のグローバル活動の原点となった聖地であるから。本稿第287回と288回の旅行の背景とミッションステートメントに述べたように、
第4コーナーを回った筆者トワイライト・エキスプレスがどうしても再訪しておきたかった地であった。 筆者が1965年に訪れた頃はラ・セレナが5万人、コキンボが2万人程度の人口であり両市を結ぶ海沿いの街道の両側は草原か農地であったが、現在は10倍の70万になっていた。 ラ・セレナは観光地として発達しており、チリ国内のみならずアルゼンチンからも観光客が訪れる。ラ・セレナはチリで二番目に古い町として知られ、市内のスペイン・コロニアル時代の面影を残した街並みとコキンボ市に続く海岸通りの瀟洒なビーチリゾートを有する。コキンボはチリで最も経済発展の盛んな地域のひとつで、半島の付け根に発達し、天然の良港を有し、鉄鉱石の輸出、ワイン醸造、ハイテク産業が発展のドライバーとなっている。征服者(コンキスタドール)スペイン人が来襲した頃、コキンボ湾は海賊の基地で、湾内で激しい戦闘が繰り広げられたとのこと。

コキンボ市1995年6月
コキンボ市1995年6月
コキンボ市2025年8月
コキンボ市2025年8月

一日、後述するホストのロベルトさんに案内されキンボ市を探訪した。昔上陸した港はそのままであったが、一週間宿泊した広場に面するホテルは今は無く、また仲良くなった子供たちと歩き廻った街はまったく変わってしまった。60年の歳月はすべてを変えてしまったが、背後に雪のアンデス山脈を仰ぐコキンボ湾だけは変わらず、また、中央広場から後背の丘に通じるジグザグ通路だけは鮮明に識別できた。

チリの師匠Roberto Lopez技師
チリの師匠Roberto Lopez技師
60年前と変わらぬ丘の街
60年前と変わらぬ丘の街

❖ 元研修生との情報交換

今回の訪問ルートであるアルゼンチンのコルドバとチリのラ・セレナに、筆者が2010年代後半に担当した2週間研修の修了生であるバレンティン・ダリオ(Valentin Dario)氏とロベルト・ロペス(Roberto Lopez)氏がいる。バレンティンは社員数90名の酪農企業の共同経営者であり、ロベルトは鉄鉱石を中心とした鉱山会社のサステナビリティプログラムマネジャーとして活躍中である。

せっかくの機会であるのでご両名に情報交換を申し入れたところ快諾いただいた。二人からは日本での研修の成果の活用状況、アルゼンチンとチリの現状、社業のイノベイティブな取り組み、プロジェクト創成メカニズムなどの情報提供をいただいた。教師であった筆者は教え子と再会することほど嬉しいことはない。お二人の好意とホスピタリティに深謝している。

❖ チリのシーフード

アルゼンチンにアサ―ド(炭火焼きステーキ)があればチリを代表するのはシーフードである。何せ総延長6500kmの太平洋沿岸地域があり、国土のどこでも豊富なシーフードが堪能できる。実質2日のチリ滞在であったが、ロベルトさんご夫妻の招待でラ・セレナのリゾート・レストランでシーフードの粋を堪能させていただいた。チリのシーフードは日本と同じで素材の新鮮さで勝負が真髄であるが、フランス料理の影響を受けて、ソースに拘っているのも特徴である。家庭料理にもシーフードが定着しており、素材を生かしたスープ系、半刺身系、フランス料理風など様々なバラエティが楽しめる。ただし、物価が高いチリではシーフードの価格は日本並みかそれ以上である。

❖ メンドサ (Mendoza)

メンドサはチリの首都サンチャゴとアンデス山脈を挟んで反対側にあるアルゼンチンの高原リゾート都市であり、アルゼンチン、チリ、ブラジル、ペルーからの観光客が集まる。マルベック種の赤ワインの大産地であり、ワイナリー巡り、アンデス山麓トレッキング、冬季のスキーが主たるアトラクションで、高級リゾートらしく、ホテルは全室スイートタイプが多い。

メンドサには1966年にブエノスアイレスからバスでパンパを横断し、15時間かけて来て1週間ペンションに泊まって、貧乏旅の中では優雅な時を過ごしたが、今回は、20時間の滞在しかない。ホテルで教えて貰ったアサードレストランで極上のステーキとマルベックワインで旅の終盤を祝った。

❖ スペイン語

今回の旅の最大の楽しみの一つは、たとえ2週間でも朝から晩までスペイン語の世界で過ごし昔を取り戻すことであった。スペイン語では全くの素人ではないので、ヒアリングでスピードについていくのは定型パターンでは目処がついていたが、スピーキングでどのくらいスムーズに言葉が出てくるか、ネイティブ・レベルの日常会話がどの程度理解できるか、が課題であった。

結果、旅に関わること、国や都市の案内、生活の基本に関すること、テレビのニュースや情報番組は聞くことも話すことも困らない程度にいけたが、ネイティブ同士、特に若者が話していることは、半分くらいしか分からなかった。何せアルゼンチンのスペイン語は、イントネーションと発音で独特のアクセントがあり、全スペイン語国で一番難しい(一番明快なのはメキシコ、コロンビア、ベネズエラのスペイン語で、スペインは超早口で、ペルーはすこし訛りがあるが、一番慣れているので分かりやすい)。

言語は、単語の理解ではなく、会話のコンテキストを素早く読み、コンテキストから出てくる文章パターンを予想するゲームであるので、若者のコンテキストが分からなければ、話していることは分からないのは当然だ。

総じて筆者のスペイン語のライブテストの得点は期待値70%に対して60%くらいであった。しかし、明らかに旅人と分かるシニアの日本人がスペイン語を話し、アルゼンチンやチリの知識を持っていることが分かると一様に驚きと好感をもって受け入れられた。

❖ エールフランス

エールフランスは東京とブエノスアイレス往復の発券であったが、帰路のアムステルダムと成田間は経営統合しているKLMの運行であった。2019年までの長年のフランスの大学院通いでは年間2回くらいはエールフランスを使い、また、セネガルに教えに行く際にはパリからすべてエールフランスを使ったので、エールフランスは大好きであるが、今回昨年度から投入された新ビジネスクラスを体験できた。若干変わったレイアウトであるが、個室感があふれ、サービスも良く快適であった。特に食事は上質のフルコース・フランス料理でワインもエアラインのワインの質が下がっているなかで秀逸であった。なお、偏見かもしれないが、日本路線よりパリ・ブエノスアイレス間の方がサービスがエレガントであると思えた。機内ではぶっつけ本番であるがフランス語で過ごした。段々フランス語を思い出した。

❖ アルゼンチンLNGプロジェクト

アルゼンチンのパタゴニアの入り口ネウケン州バカ・ムエルタ(Vaca Muerta)地区で世界最大級のシェール天然ガスの埋蔵量が確認され開発が進んでいる。代表的なメガプロジェクトとして内陸のバカ・ムエルタからパイプライン(増設中)で太平洋岸に運び、そこでFloating LNG(係留LNG)基地でLNGを製造し、インドなどアジアの国々と長期販売契約(Offtake Agreement)を結んでいると報道されている。LNG年産2千万トンあるいは3千万トンが実現すると現在のアルゼンチンの農産物の輸出額に相当し、アルゼンチン経済は大きく飛躍する。日本はLNGの各バリューチェーンで世界的な強みを持っているので参入機会があることを願っている。ただし、報道では、3件計画されているFLNGプロジェクトの最初のプロジェクトは中国企業と随意契約をネゴ中とのこと。


5) プロジェクトマネジメント的振り返り
 最後にこのブログ第188回で書いたこの旅行のプロジェクトマネジメント計画に照らして、実施状況がどうであったかを報告する。

スコープ
最終計画スコープからの逸脱はなかったが、計画が進んだ5月に大きな変更としてラ・プラタ市訪問を中止した。旧社業で大きなプロジェクトを2回完成した地で先輩たちの思いが強い地であり、ぜひ訪問したかったが、鉄道での移動は身体的負担が大きく、またブエノスアイレスの発駅や車中は盗難など安全の懸念もあるとのことで断念した。

スケジュール
ブエノスアイレスへの空路往復4日間はマイルストンではなく制約(必達が条件のアクティビティ)であった。予約変更可能なチケットではあるが、変更の際は運賃差額を支払う必要があり、その額は元が超安値のチケットであるので片道でも30万から40万円となる。よってこの往復は必達の制約となる。
今回の旅程では最初のアルゼンチン滞在がフロート(予備日)が十分あり、チリ滞在からアルゼンチン、パリ経由の帰路はフロートはチリでの1日のみとなった。これはラ・プラタ訪問がキャンセルされてブエノスアイレス滞在が延びたことと、前半に余裕を取り、後半のチリ以降でラッシュする戦略のゆえであったが、振り返ると、ブエノスアイレスからチリ訪問を先にして、チリ滞在日を伸ばし、サンチャゴ見学をし、体力的な余裕を持たすべきであった。
プログレスの管理は、即予約の管理であり、後半は予約管理のコミュニケーションで毎日2時間程度要した。 旅のプログレス管理は、建設工事と全く同じで、どこまで進んだかが物理的に把握できる。

コスト
航空運賃(発券時金額固定)、ホテル代、予約タクシー代(以上は外貨建固定)は正確な積算が出来て、予算との差異は、現地払いのホテル代などの為替差額だけであった。食事も、食べたいものの希望、予算や食欲に応じて飲食先を選べたのでコストが狂うことはなかった。

リスク
対応した大きなリスク項目は、上記「ハプニング」に記した4件であった。出現の可能性は10%、空港でのシニアサポートのみ50%のリスクである。
出現可能性が30%程度あるフライトのキャンセルや遅れは実質ゼロであった。
健康と体力の維持はうまくいったが、よく休養を取り、適食を心がけたことは正解であった。腹八分目、旅七分目がよい。

コミュニケーション
手段としてキーになるWhatsAppは研修を含めて日常的に使用しており、またスペイン語も旅には十分であり、全般的にうまくいった。

最終回である次回は、手作り長距離旅行のノウハウについて紹介する。 💛💛💛

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