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「Whyが気になります!」

プラネット株式会社 中 憲治 [プロフィール] :1月号

パーソナルプロジェクトで何を選ぶのかは常に悩むところである。やりたいことは幾つもあるが、そのプロジェクトを選ぶのにどのような理由があるのかが重要だと思っているからだ。実に厄介だが、プロジェクトの立ち上げプロセスで、Whyを問う考え方は、実に論理的だと思うし、それがしっかりしていればプロジェクト推進のモチベーションになると考えている。
昨年10月に「竹ノ内街道」を歩いてきた。昨年4月のジャーナルに今後のパーソナルプロジェクトの候補として「竹ノ内街道を歩く」ことを投稿した。「竹ノ内街道」の紹介の部分を再掲する。
「竹内街道」とは飛鳥時代・推古天皇21年(西暦613年)に制定された難波と飛鳥京を結ぶ日本最古の官道である「大道(おおじ)」の一部を構成する道である。
日本書紀によると、推古天皇の制定した「大道」は、当時の隋との外交の玄関口である難波津から堺を経て、政治の中心地であった飛鳥・小墾田宮(おはりだのみや)までを結ぶ日本最古の官道(国道)で総延長40㎞におよぶ、難波津から堺までは「難波大道」、堺から竹内峠を超えて葛城市の長尾神社までを「竹内街道」、長尾神社から飛鳥・小墾田宮までは奈良盆地を東西に走る「横大路」の3つの道で構成されている。「横大路」は橿原市八木町付近では古代と同じ24mの道幅で現存しているとのことであり、日本最古の官道を歩くのはパーソナルプロジェクトのテーマとして適していると判断した。
1.一つ目のWhy
その時考えたWhyは、推古天皇は何故この道を「官道」として選んだのかである。それが歩くことに価値ある道なのかどうかを決めると思えた。
大阪府の「歴史街道ウォーキング」のHPには、その理由として、遣隋使を開始した時隋からの使者を飛鳥の京まで迎え入れる経路として大和国の国威を表すために最適だと考えたものと思われるとある。
仁徳天皇が開いた難波京から推古天皇の築いた飛鳥京までを結ぶ「官道」を歩いてみたい、パーソナルプロジェクト遂行のモチベーションが固まった。歩いてみて気づくことは、確かに「竹ノ内街道」の経路周辺には古墳が多く存在する。代表的なのは、百舌鳥古墳群を代表する「仁徳天皇陵古墳」だが、その他に、「日本武尊白鳥陵」のほか、太子町には「推古天皇陵」「敏達天皇陵」「用明天皇陵」「孝徳天皇陵」などの歴代天皇の陵があり、「聖徳太子御陵」が連なっている。
「仁徳天皇陵」は堺の東部にあり、「竹ノ内街道」がその傍を通っている。当時交易の港であった難波津からわざわざ堺まで南下する「難波大道」を設けたのも「仁徳天皇陵」を見せるためと考えると納得がいく。
「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみことしらとりのみささぎ)」の横を通るなど、古代の天皇・皇族の陵が続き、大和国の権威を示す街道である。
2.二つ目のWhy
「竹ノ内街道」は、現在の大阪府と奈良県の境にある竹ノ内峠を越える。竹ノ内峠を越えるとき、眼前に飛鳥の里が広がる、隋からの使者にとって、これが大和国の京(飛鳥の京)かと感慨が広がったのでないかと推測される。竹ノ内峠の西側は、現在の大阪府南河内郡太子町である。ここには、字/飛鳥、字/春日といった集落がある、なぜ、太子町なのか?なぜ字/飛鳥なのか?当然気になった、加えるに、この太子町には、聖徳太子の陵、推古天皇の陵もある。二人の陵は、当然のこと飛鳥の里にあると思っていたが、なぜ、竹ノ内峠の西側、太子町にあるのか疑問が生じ、その理由を知りたかった。
太子町には、「竹ノ内街道歴史資料館」があり、尋ねてみたが担当者も知らなかった。
時の統治者のお墓は、必ずしも統治した場所にあるとは限らない。「仁徳天皇陵」は難波京にはなく、堺の百舌鳥地方にある。これは、仁徳天皇が生前にこの地を選んだとの言い伝えもある。
しかし、聖徳太子が竹ノ内峠の西側に墓を求めたとしたら、その理由は何故なのか?竹ノ内峠の東側ならそこから飛鳥の里も、聖なる山「三輪山」も眺められるのにと考えてしまう。
「推古天皇陵」は、「聖徳太子陵」のあるすぐ側にある。その理由は、推古天皇が望んだからと言われても納得がいくが、聖徳太子がなぜ、太子町(太子町の名は、聖徳太子の陵があることが理由と思われる)の地を選んだのか、いつか、そのWhyの答えを求める旅をしたい。

「竹ノ内街道」

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