(1) こちらから、敵へ仕懸けていく先、「懸(けん)の先」(先々の先) |
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最初は静かにしていて、それから突然素早く仕懸ける。表面では強く早くするが、心は残す。逆に、心は強くして、足は平常の足より少し早い程度で、敵の間合いへ入るやいなや、猛烈に攻めたてる。心を捨てて、初めから最後まで同じように、敵を押し潰す気持で、徹底的に強い心で攻撃に出て勝つ。 |
(2) 敵の方から、こちらへ仕懸けてくる時の先、「待(たい)の先」(後の先) |
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敵の方が仕掛けてくる時、それには少しも相手にならず、こちらの攻勢が弱いように見せて、そして敵が近づくと対応を一変して、勢いよく強く出て、飛びつくように見せ、敵の攻撃の怯んだとき、それを見て、一気に強く出て勝つ。また、敵が仕懸けてくると、こんどは逆に、こちらは敵よりも更に強く出る。その時、敵の仕懸ける拍子の変化する隙間を捉えて、そのまま勝ちを得る。 |
(3) 敵もこちらも、同時に仕懸け合う時の先、「躰々(たいたい)の先」(先) |
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敵が早く仕懸けてくるとき、こちらは静かに、つまり急がずに、強く応戦し、敵が近づくと、勢いよく思い切った体勢になって出る、そこで敵の遅滞の見えるところを、一気に強く出て勝つ。また逆に、敵が静かに、ゆっくりと懸かってくる時、こちらは軽く浮いたようになって、敵より少し早く仕懸けていき、敵が間近になると、ひと揉み争ってみて、その敵の様子に応じて、強く出て勝つ。相手の出方の動静によって、こちらは逆の動静で応じるが、様子を見て強く出て勝つ。 |
この「三つの先」は、敵に対し戦いのイニシアティヴ《先》をとるという、戦闘における戦い方の戦術的教えである。その「先」は、こちらから敵を翻弄するように、思い通りに敵を動かす《敵をまわす》ようにやれという。《善く戦ふ者は、人を致して、人に致されず》(孫子:虚実篇)という教えの通り、戦さ上手は、敵を思い通りにはしても、敵の思い通りにはさせないということである。五輪書は説明が具体的で懇切であるが、言葉で説明するには限界がある。それらは各自それぞれが工夫すべきものである。実技は何でもそうだが、ひとから与えられるのではなく、自ら把握し体得する部分が大きい。言葉はいわば中途半端な導きをするにすぎない。目と頭で読むのではなく、身体を動員しなければ読めたとは言えない。「PM論」における、ガイドブックの類も然りである。