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【パーソナルPM ヒストリーとPMAJへの期待】

JFEエンジニアリング株式会社 山根 哲博: [プロフィール] :3月号

1.1980年代 - PMとの出会い
PMとの出会いは30年以上前、海外EPCプロジェクトを受注し遂行するために必須となっていたPMのシステム構築と運用に足を突っ込むことになった。コンピュータといえばメインフレーム(一部ミニコン)を指していた頃で、CPM、リソース管理、WBS、EVMなど、今も変わらないPM手法(QCDコントロール)に取り組んだ。PM実践者にとってロジック・ネットワーク・スケジュールという言葉が今どれだけ重要度を持つか分らないが、メインフレーム(バッチ処理)でスケジュール計算をすると結果が出るまで時間と金(課金制)が掛かったので、手計算で結果を出す能力も身につけた。PCがビジネスに使えると分かると工事現地で使う会計、進捗管理や資材管理のシステムをPCに載せていった。誰もが知るPMパッケージソフトは日本で最初に使っていたと後に創業者から聞いた。
書店にPM指南書など置いてなく、聞けば答えてくれるコンサルタントも居ない時代なので、海外パートナー、社内の先輩、海外書籍、ENAA(現.エンジニアリング協会)の調査研究報告などを頼りにした。1986年になるとENAA編纂の「エンジニアリング プロジェクト・マネジメント用語辞典」が出版され、日本語のPMバイブルを手元に置けるようになる。PM手法は米国で60年代までに体系化され、日本企業でも海外工事の受注拡大とともに70年代には実践の段階となり、80年代は標準化・システム化の時代だったといえよう。

2.1990年代~2000年代 - PMプロフェッショナル団体との関わり
1991年から米国に駐在する機会があった。現地で先輩から「学会(プロフェッショナル団体)の支部例会が面白いよ」と言われ、自分のバックグラウンドとつながるPMI®の会員となりLAチャプターの月例会に顔を出した。NASAの施設訪問などの例会や、そこで知り合った人の事は今でも覚えているが、ブームが来る前の資格認定の事は残念ながらあまり覚えていない。この頃は数年後に日本で同様の活動を推進することになるとは想像もしなかった。
帰任後、1994年にENAA主催のPMI®北米大会派遣団、その後のPMBOK® Guide翻訳チームに参加、引き続きJPMF設立のワーキングに加わり、日本のPM普及活動に関わることになる。ENAAではPM基礎の教材作りも行った。PMI®北米大会に私を指名した上司から言われたことは、「Takeだけの意識で参加してはダメ。出来る事に手を上げないと認めてもらえないよ」。
2000年以降はENAAでEPCのPMの調査・研究と、JPMF/PMAJの業種を問わないPM普及を並行して行った。PMAJでは国際交流部会やPMシンポジウム(国内/国際)などに楽しく参画させていただいた。JPMFの初期の活動はエンジ・建設業界からのメンバーも多く、例えばシンポジウム運営など、古くからの実践者たちと一緒にEPCのPMノウハウの提供も出来たのかと思う。活動にはドキュメント品質と期限どおり仕事を終わらせることが求められ、振り返れば本業も相当ハードだった時期に何とかこなして来た事で、個人ビジネススキルは大幅にアップし、本業で使える体系化されたナレッジも身についたかと思う。また、多様な人たちと接し議論することで、知識ベースの幅も拡大した。

3.これから - PMAJへの期待
エンジ・建設業界(に限らないと思う)で耳にする次世代PM人材の育成、即ち伝承の問題がある。国内事情といえば、資格試験の浸透とともに基礎PM知識習得の場は充実してきたが、EPC応用編PMスキルは経験学とされOJTに委ねられている。米欧は全てをOJTで賄うという文化でないためEPC向けPM手法の進化(深化)と普遍化も継続されているが、PMを冠した団体が実施していないので日本での認知度は低いと思われる。
普遍化のテーマとして、2005年のJPMFジャーナル23号「プラントエンジニアリング系のプロジェクトマネジメント」にある「スコープ定義・契約・WBS」、「国際協業・海外リソース活用」、「マトリックス組織運営」、「マネジメント業務(スケジュール、コスト、リスク管理など)手順書」など考えられる。SIG等の場で経験者と若い人が協働してプロダクトを生み出す仕組みがあれば良いのかと思う。ドキュメントを作ることで若い人の実務能力は確実にアップする。課題は参加者が居るかどうかで、今すぐとなると難題であるが10年スパンで考えると何とかなるのではなかろうか。

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