例会部会
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「第200回例会」報告

例会部会長 枝窪 肇 [プロフィール] :9月号

 日頃、プロジェクトマネジメントの実践、研究、検証などに携わっておられる皆様、いかがお過ごしでしょうか。
 7月に第200回の記念例会が開催されました。記念例会ということで通常とは違ってお二人の講師にご登壇いいただきました。
 今回は二つ目のご講演についてレポートいたします。

【データ】
開催日: 2015年7月22日(水) 19:40~20:30
テーマ: イノベーションを起こすための企業カルチャーとマネジメントスタイル
 ~MBAや大企業的組織マネジメントからはイノベーションは生まれない~
講師: C Channel株式会社代表取締役 森川 亮 様
講師略歴及び講演概要:   こちら のリンク先の例会案内をご覧ください。

【はじめに】
 講師は2015年3月までLINE株式会社の代表取締役社長を務められ、現在はC Channel株式会社にて新たな動画配信サービス事業の立上げをされています。
 今回のご講演では、講師が日本テレビに入社後現在まで行ってきたことと、ご自身の考えるマネジメントスタイルについてお話しいただきました。
 以下に今回のご講演の概要をまとめます。

【講演概要】
日本テレビ ~ SONY時代 :
 僕は、子供の頃からいろいろな楽器の演奏をしてきました。
最初は歌手で、変声期を迎えてからはドラム、チューバ、サキソフォン、ピアノ、ギターなどです。最終的にはドラムが好きでずっと継続してきたのですが、ドラムだけはドラムマシンという機械ができて、人間がいなくても成り立つようになってしまいました。
 この時、コンピュータによっていろいろな世界が同様に変わっていくのだろうと思い、筑波大学でコンピュータを学びました。
 ただ、周囲にあまりなじめずコンピュータ嫌いになり、ジャズのバンドを 4 年間やりつつ、卒業後日本テレビに入社しました。

 テレビ局なので、コンピュータとは関係のない、音楽の仕事ができるかと思ったのですが、配属先はコンピュータシステム部という部署で、そこで財務システムの開発をするように言われました。どうせやるなら「石の上にも三年」と言いますから、そこからコンピュータの勉強をすることにしました。
 当時の上司が、財務システム担当はさすがにつらいだろうということで、最初は報道のデジタル化の担当をすることになりました。
 当時の報道は皆原稿を手書きで書いていたのですが、それをPCに置き換え、無線で記者クラブからリモートで飛ばして、サーバーに溜めて、それをデスクで編集して、プロンプター (アナウンス原稿がテレビカメラに出る仕組み) に表示するという仕組みを開発しました。
 その後選挙の担当になり、日本で初めての出口調査の仕組みを開発しました。最初は地方選挙を予想し、都知事選で見事に当確を予想し、その後全国選挙で使われるようになりました。
 報道関係のシステムを一通りやった後は視聴率分析の仕事になりました。視聴率に関するデータには皆さんがよくご存知の番組視聴率や年齢・性別などの個人視聴率、 1 分毎の毎分視聴率など色々なものがあります。当時 (20年ほど前) は、番組が終わった後にFAXで番組視聴率が送られてくるような時代だったのですが、すべてのデータをMacintosh/クライアントサーバー/タッチパネル/GUIで扱えるように設計し、プロデューサーがそのデータをダウンロードしてExcelで毎分処理しながら活用する、例えば、この時間帯にこのタレントを出したら数字が落ちたとか、CM直前で盛り上げることでCMによる数字の低下を抑えるとか、他局のCMタイミングに合わせてこちらもCMを入れるといったようなことで、戦略的に番組構成を考える仕組みを作りました。
 そこまでやった頃、そろそろコンピュータは卒業したくて異動希望を出したのですが、仕事ができるとなかなか異動させてもらえなかったので辞表を提出しました。すると、辞める一週間前くらいに「好きなことをやって良いから会社に残りなさい」と、自分専用の新しい部署を作っていただきました。そこから、今のような新しい事業をずっとやり続けています。
 インターネットが出始めだったということもあり、最初はインターネットビジネスをやることにしました。手始めに社内啓蒙からということで、社内向けのインターネットプロバイダを立ち上げました。他にも、BSデジタル放送が立ち上がる時に会社を作ったり、海外展開をしたりするなど、テレビ局がする大体の新規事業を一通りやった後、12年在籍した日本テレビからSONYに移りました。

 当時のSONYはまだ出井社長時代で、多くの製品がヒットしている一番元気なときでした。
 入社後最初に、テレビやオーディオをインターネットに接続する事業の責任者を任されたのですが、社内からものすごく反対されました。SONYはもともとプロダクト毎にすごく独立性が高く、それぞれが企画・販売をするという形式で、さらに、自分たちが特許を持っている技術以外は使わないという強いこだわりもあり、なかなかインターネットに接続させてもらえませんでした。結果としてそこからは異動し、トヨタ、東急とジョイントベンチャーを作り、ブロードバンドで動画配信をするサービス事業を立ち上げました。まだブロードバンドが20万世帯にしか普及していない頃で、色々なことにチャレンジしたのですが、韓流ドラマの配信をしたところこれが大当たりしました。そこからSONY本体から出向者が送られてきて色々と口出ししてきました。このときに大企業の難しさを感じ、前職の会社に転職しました。

HANGAME ~ LINE :
 36歳で転職した当時、平社員として入社し年収も半分に下がりました。
 当時は社員数30人の会社でした。入社後 1 カ月くらい経ってから社長に呼ばれ、来月から事業責任者をやってみないかと言われました。幸い、その後急激に数字が伸び、4 年くらいで年間売り上げが80億円くらいにまで伸びました。そして、2007年に社長に就任しました。
 社長になってから最初にやったことはNAVERという検索事業の立上げでした。
 NAVERの事業立ち上げのために2009年に会社を設立し、検索事業でGoogleを超えることを目標としました。livedoor® が加わりさらなる強化もして売り上げが伸びたのですが、そこからは伸び悩みました。そんな時に震災が起こり、LINEが生まれました。
 どうしてLINEが生まれたかというと、もともとゲーム事業にしても検索事業にしても、コミュニケーションに価値を与えるということでやってきていました。ゲームもゲーム好きのためというよりゲームをコミュニケーションのきっかけにしてほしい、検索もネット上のデータを集めてくるのではなく、コミュニケーションをデータベース化してその人に合った検索モデルを作りたい、そういう中で人と人がコミュニケーションを取りながら知識を高めていくという仕掛けを作りました。
 検索はうまくいきませんでしたが、スマートフォンのコミュニケーションということでLINEを出しました。
 LINEを出してからは売り上げが順調に伸びました。非常に順調に成長はしたのですが、会社のマネジメントは結構大変でした。
 外国人比率が30%くらいになり、日本テレビやSONYで経験した日本的なマネジメントが通用しなくなりました。
 日本人は管理が好きで、レポートを作ったり朝礼をしたり情報共有をしたりしたのですが、特にアジアのベンチャー好きの方はそういうことが大嫌いで、自由に、やり方ではなく結果中心でやらせてほしいと主張しました。IT業界のトレンド変化はすさまじく速く、そうしたことも含めてどのようにマネジメントすれば良いかとずっと悩みながらやってきました。

マネジメントスタイル :
 結論から言うと、変化というものを強みに変えること以外に生き残る道はないのではないかということになります。
 デジタル化時代になって、ICT業界の進化が全ての産業に影響を与え、累乗的に世の中が変化し進化しているというのが現状だと思います。
 10年くらい前まで見ることができた「未来を予測する本」も最近は見ることがなくなりました。これは恐らく、人間の処理能力のスピード以上に社会の変化が速くなってしまったことで、予測ができなくなってしまったからだと思います。
 昔は予測するという仕事の価値がとても高かったのですが、今はそこにお金と時間を使うより、変化の兆しを掴むこと、そして、兆しがあったときに変化に対応できることの方が重要になってきていると思います。

 生物学を歴史的に紐解いてみると、氷河期以降、強くても賢くても、大きな変化がある時には変化に柔軟に対応できた者 (種) しか生き残れませんでした。ダイバーシティの議論もそうですが、単にダイバーシティがあるだけではバラバラになってしまいます。やはりその中で、変化に適応できる人やプロダクト、サービスといったものが、技術を含めて大変重要だと思います。
 会社が大きくなると色々な事業があり、特にそれで成長した会社の場合、その技術を壊すような技術が次のトレンドだとしてもなかなかそちらを選ぶことが難しいという社内政治が存在しますが、会社を生物として捉えたとき、これから変わる強みだとか変わる価値を選んで古いものを捨てないと生き残れない時代になったと思います。

 そんな中、日本人向けに進めてきたのが計画を立てないようにすることです。日本人は計画を作ると、それを変更することをとても嫌がります。それは、計画を発表後に計画変更をすると信用できないと言われたりするからです。ですから、もちろん計画は立てるのですが、人にはわからないようにこっそり作るようにしました。これにより、計画を変えても誰にも気付かれず、いつも楽しく仕事ができるようになりました。
 情報共有をしないようにもしました。情報共有すると、その人の意思とは無関係に一つの歯車の中に入ってしまい、新しいイノベーションが生まれなくなります。また、共有する相手が隣の部署や他の営業部署だったりすると、部署同士の戦いが始まってしまいます。
 本質的に大事なのはお客様であり、プロダクトでありサービスであるのにそこに集中せず、部長の出世や役員の機嫌といったものを気にし過ぎて良いものの提供に集中できなくなります。
 さらに、定例会議もやめました。定例会議をやめることにより、スピードが速くなりました。定例会議の周期が週に一度だとすると、物事が週に一度しか決まりません。世の中のスピードはとても速く、時にはその場で決めないと遅いということにもなります。ましてや、週に一度だと、翌週翌週と先送りすることで、結果的に 1 カ月くらい経ってしまったりしますが、定例会議をやめたことでスピードが速くなりました。
 定例会議をやめたことによる別の効果は仕事をしない人がいなくなったということです。定例会議には会議好きな人がたくさん集まってしまいます。そういう人は大抵は評論家で、何かを言うと、こんな問題がある、こんなリスクについてはどうするのか、誰が責任をとるのかと、そんなことばかりを言うので、皆がやる気をなくしてしまいます。定例会議をやめるとそういう人たちの仕事がなくなり、誰が仕事をしていないかが一目瞭然になり、自然とそういう人たちは辞めていきました。
 また、管理するだけの人を採用するのもやめました。管理するということは管理される人がいるということですが、管理されなくてはいけないということは即ちプロではないということです。管理する人とされる人が減ったことで、管理のための時間が無くなり、マネージャーは仕事に集中できるようになりました。
 結果として、自分がやるべき仕事に集中し、優秀な人が成果を出せる組織が実現しました。

 ヒット商品を出す一番重要なことは、速く良いものを出すということだと思います。
 現場の方、特にエンジニアは、良いものを出すのであれば時間がかかる、逆に、速く出すとクオリティが下がるということを言います。しかしこれは、作る前の作るかどうかの議論や、作る段階の仕様固め、仕様書作成、作り終わった後の色々な手続きといった、作る前後の作業が長すぎるせいだと思います。こうした時間を短くすることで、クオリティが高いものを速く出せるようになると思います。

おわりに :
 僕自身が今年LINE株式会社を辞めてC Channel株式会社を立ち上げました。
 C Channelは、若い女性がスマートフォンで動画を撮ってスマートフォンで編集しアップするという、ユーザー向けの動画サービスです。
 日本を元気にしたくて色々なビジネスを考えたのですが、今一番元気がないのはメディアだと考えました。地上波には外資規制というのがあり、外国企業が参入できないのですが、一方で、ネットビジネスでは国内外の色々なものが入ってきますので、今後、地上波のマーケットをどんどん奪っていくのではないかと思います。
 ただ、日本の文化や日本人の考え方などを発信して伝えるのは、やはり日本から生まれたメディアでないとなかなかできないことだと思います。
 NHKのような歴史のある会社ではなく、僕たちのような新しい会社が新しいブランドをグローバルに作り、そこに色々な日本の文化、日本のコンテンツ、日本のアーティストなど、世界に通用するブランドを作ろうと考えています。
 ぜひ応援してください。

【感想】
 今回の講演では、高校時代の同級生である講師の華麗なる成功事例や、私が日頃過ごしている日本企業の古いしきたりの中では到底考えも及ばないような大胆なマネジメントスタイルを聴くことができて目からうろこが落ちる思いでした。
 今後も講師の会社やサービスが、ますます日本を元気にしてくれることを心より期待します。

 以上が今回の例会の概要です。今回のご講演資料は、協会ホームページの「PMAJライブラリ (例会・関西例会) 」のページにアップロードされていますのでご参照いただければと思います。

最後に、我々と共に部会運営メンバーとなる KP (キーパーソン) を募集しています。参加ご希望の方は、日本プロジェクトマネジメント協会までご連絡下さい。

以上

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