今月のひとこと
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新任編集長よりのご挨拶

オンライン編集長 三浦 進 [プロフィール] :4月号

 2009年より5年間編集長を務めて頂いた岩下編集長の後を継ぐことになりました三浦です。宜しくお願い致します。岩下編集長の長年の貢献に敬意を評したいと思います。ありがとうございました。

 私は、PMAJの前進であるJPMFの立ち上げからPMの普及にかかわることになり、旧エンジニアリング振興協会(ENAA)PM導入開発委員会の委員としてP2Mの開発にも携わりました。JPMF/PMAJでは、始めの頃はジャーナル編集委員を、合わせてPMシンポジウムの実行委員を長年務めて来ました。2006年から2011年まで仕事で長期海外出張となり、協会の仕事から離れてしまいましたが、昨年末に任期満了で40年間勤めた会社を退職致しました。会社はプロジェクトも多く人手不足でありますが、退職後は社会貢献の出来る仕事が出来ればとかねがね考えており、また協会のお手伝いが出来ることになりました。しかし、海外長期出張の5年間はプロジェクトも成功し、得ることが多く一生の思い出であり財産となりましたが、P2Mの改訂や協会の皆様が進めて来た普及活動などからは遅れてしまい、キャッチアップしなければと思う次第です。皆様のご支援をお願い致します。

 ここで、私のルーツとPM (プロジェクトマネジャー)が育つことについて少し述べたいと思います。私は、機械工学専攻の工学修士(所謂機械屋)でしたが、大学院の臨時講座で「装置工学特論」があり、そこでプラント建設の総合エンジニアリングと言う業種があることを知りました。機械工学を専攻していると当時は自動車、造船などの重工業・製造業への道が多いのですが、大きなさら地にプラントを建設する、そこには高圧圧力容器等色々な機械があり土建、配管、電気、計装(制御装置)など、それを纏めていく仕事は魅力的であると感じ、そのPMになって見たいと思いました。幸いエンジニアリグ会社に就職することが出来てPMを目指すことになりました。
 エンジニアリング会社には種々のキャリアパスがあります。通常私のような場合は、機器設計部で何年か働き、ジェネラリスト(ここではプロジェクトマネジャーへの道)が向いているか専門分野のスペシャリストとして行くかが分けられていきます。私が入社した時は、幸か不幸か私も含めて何名かが国内プロジェクト部門への配属となりました。本当は要素技術を習得しプロジェクトマネジメント部門で仕事をすることが良いのでしょうがいきなりプロジェクトでした。プロジェクトマネジメントチームの入口はPE (プロジェクト・エンジニア)です。解りやすく説明すると各設計部門等のコーディネータです。はじめは右も左も解らず、要素技術は書籍・メーカカタログ等から独学、また、会議で課題の把握に努める等で仕事を学んで行きました。約10年経ち4つ目のプロジェクトでPEM (プロジェクト・エンジニアリング・マネジャー) に昇格しました。プロジェクトチームとして設計を統括する責任者です。その後のプロジェクト(13年目)でPMになることが出来ました。
 PMになるまでに、3人のPMに仕えることになりました。これが私のベースになりました。1番目のPMは、メーカ・業者とのチャンネルを良く持っており、現場で特殊な鋼板1枚が不足している時に日本中の知合いに連絡し数日で手に入れることが出来ました。2番目のPMはとても優秀な方で、部下の育成にも熱心で、「私は君たちを育てるから、君たちはこのプロジェクトが終わったら、2人のPEを育てなさい。そうすれば優秀なプロジェクトメンバーがねずみ算的に増えるはず。」と、客先や業者との交渉の場にも同席させられました。ただし、「一言も口を聞かない、作戦が狂うとこまるから。」と実務を肌で学べるようにしてくれました。3番目のPMは、努力家で客先との追加交渉でも諦めない、粘り勝つとのタイプでした。
 人間の成長も同じですが、親の背中を見て育つであり、PM自身が見本となれるコンピテンシーを持っていることとが第一と思います。それに人を育てることを自分の責務と認識しているPMが必要で、PMの評価に人材育成にどの様な効果を上げたかも取り入れることは必須でしょう。残念ながら自分のことしか考えられず、部下をガミガミ言って働かすだけのPMも多いような気がします。
 私のPMへの道では、良いPMの下で働くことが出来た、それがその後のプロジェクト遂行に大きく影響しています。 PMになって「三浦PM、XXPMが居る様だよ!」と言われた時は嬉しかったことを思い出します。

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