PMプロの知恵コーナー
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「エンタテイメント論」(44)

川勝 良昭 Yoshiaki Kawakatsu [プロフィール] :11月号

エンタテイメント論


第2部 エンタテイメント論の本質

2 左脳的認識と右脳的認識
●人間性決定要因となる頭脳判断(真偽、美醜、善悪)
 多くの動物は、生まれて直ぐに立ち上がり、直ぐに社会的活動を始める。しかし人間は、生まれて直ぐに立ち上れない。社会的活動を始めるまでに、生物の中で最も長い期間、親や社会からの保護と教育を受けねばならない。人間は、全くやっかいで、世話がやける「未熟児」と言える生物と云えるかもしれない。しかしこの未熟児が生物界で最も進化した頭脳を持っている。

 貧困が蔓延る恵まれない国、戦時下で生きることすら困難な国などは別として、普通の国では、子供達は、家庭教育、学校教育、社会教育など様々な教育を受けて育ち、就職し、本格的な社会活動を始める。

 この成人に至るまでの期間に、その人物の性格、人格などの「人間形成」がなされ、モノゴトの真偽、美醜、そして善悪を判断し、行動する人間になる。言い換えれば、人間としての頭脳が形成される。
人間性を決定付ける両脳の働き(真偽、美醜、善悪)
人間性を決定付ける両脳の働き(真偽、美醜、善悪)

 多くの人間は、Abraham Harold Maslow博士の「マズロー理論」の主張する段階的欲求レベル、即ち生理欲求~安全欲求~社会帰属欲求~尊敬欲求~自己実現欲求が年齢と共に芽生え、成人に至る過程でその欲求の対象となったコトガラを如何に適時、適切に達成できるか、または達成できたかを自ら確かめつつ、成長を続ける。
出典: Maslow's hierarchy  Wikipedia of USA

 ①何が本物か? ②何が美しいか? ③何が善いことか?という判断ができる力とそれを実行する力を如何に適時、適切に習得できるか、また実行できるかによって、その人物の人間性が決定付けられる。①から③は人間性決定要因と言えるだろう。

 ①真偽の理性的判断は、主として左脳の働き、②美醜の感性的判断は、主として右脳の働き、③善悪の総合的判断は両脳の働きにそれぞれ依存する。「主として」と言ったのには理由がある。正常な働きをする人間の頭脳は、左脳と右脳が別々に判断し、別々に思考し、別々に行動を指示する様なことはしない。両脳は常時、一体として機能するからである。

●サバイバル武器とハイ・クオリティー・ライフ武器
 人間性決定要因の「真偽」、「美醜」、「善悪」の3要因を如何に適時、適切に体得し、それを実行することが出来たかによって「人間性の獲得」だけでなく、人間が生活する上で極めて基本的な能力と生存力という所謂「サバイバル・ライフ武器」を獲得することになる。

 更に興味深いことは、「真偽」と「美醜」に関する鋭い感覚と実践力は、「エンタテイメント」と極めて密接な関わりを持つことである。生誕から成人までの過程で、家庭教育や学校教育だけでなく、適時、適切な「エンタテイメント教育」は重要と考える。愛に満ちた家庭教育、まともな学校教育、善悪の社会教育などの他に、心からの笑い、理解と得心のいく笑い、心の通った交流など「正常なエンタテイメント」を体験してきた人間は、自らと他者との関係で「豊かに、明るく、楽しく」生活するための所謂「ハイ・クオリティー・ライフ武器」を獲得する。

 荒んだ家庭環境、歪んだ家庭教育、親の見栄と強制による異常な受験教育、善悪判断を狂わせる社会環境など「正常でない教育」を受けた人間は、人間性を欠落させ、時に反社会的行動を行う。その様な人間が快楽的笑い、理解や得心のない笑、無友人、無交流の対人関係など「正常でないエンタテイメント」を体験すると、益々自己中心主義を加速させ、他者を信用しない度合が加重させる。その結果、「寂しい、暗い、楽しくも、面白くない」人物になる。下記の「悪夢工学」が説く性格分析評価の「B型タイプ」の人間になる。そして金があっても、地位があっても、自己実現とほど遠い人生を送る。

 筆者は、本稿で度々取り上げた通り、「夢工学」と「(抗)悪夢工学」の両方を提唱している。夢工学は、主として①の要因と②の要因を議論の対象にしている。人間の理性と感性の働きは何か? 真偽と美醜の判断と行動を根源的に支配するモノは何か? 理性と感性の働きと成功と失敗とは如何なる関係にあるのか?などを説いている。悪夢工学は、③の要因を議論の対象にしている。善悪の判断と行動を根源的に支配するモノは何か? 理性と感性の働きは善と悪と如何なる関係にあるか? などを説いている。

 さて本連載の原稿を書いている時、本論の観点から気になる「話題」とぶつかった。その様な場合は、「当該話題を本テーマに関わりなく割り込ませる」と以前予告した。ついては取り上げたい。

●2011年・プロ・アマ・ゴルフ選手権「日本オープン」
 その話題とは、2011年10月に千葉・鷹の台CCで開催された「日本オープン」のことである。その最終日(16日)、2アンダー3位でスタートした裵相文(ベ・サンムン 韓国)は、トータル2アンダーでホールアウトした。同スコアの久保谷健一とのプレーオフを制して今季3勝目の優勝を挙げた。

 昨年の2010年の愛知県愛知CCで開催された「日本オープン」では金 庚泰(キム・キョンテ 韓国)が優勝した、本論(32)の「エンタテイメント論の概要」、2010年10月25日で取り上げた。彼は首位の藤田寛之との4打差を物ともせず、ボギー無しの7バーディーのコース新記録64をマークし、藤田に2打差をつけ、13アンダーで逆転優勝した。そして石川 遼を抑え賞金ランク・トップになった。
出典:裵 相文(ベ・サンムン 韓国)/金 庚泰(キム・キョンテ 韓国)2011年日本オープン優勝 日本ゴルフ協会のHP

 さて「日本オープン」に2年連続、韓国選手が優勝した。日本人プロ選手の挑戦を寄せ付けなかった。今回の最終日の成績10位までに外国選手がなんと4人。日本人選手の実力の無さをまざまざと見せつけた。話題の石川 遼の挑戦は空回りとミスの連続であった。

 しかも昨年と同様、競技の放送姿勢やその内容は、全く迫力もなく、感動も与えず、素人でも出来る様な解説、日本選手ばかりを主観的に応援し、客観的、専門的で厳格な分析も、選手のプレー予想も殆ど無かった。そして「エンタテイメント性」が全くなく、競技映像の「垂れ流し」であった。全米ゴルフ・オープン競技のTV中継での米国人解説者の新鮮さや面白さを少しは勉強すべきである。

 最も問題なのは、裵相文(ベ・サンムン)の優勝の分析と久保谷健一の敗因の分析は、誰の目にも明らかであったに拘わらず、解説者や報道陣は全く見当違いの分析をしたことである。

●日本オープンを話題にした真意
 ゴルフ競技に興味がない読者でも「日本オープン」が何たるかは知っているだろう。これは、日本のゴルフ競技で最も権威があるもの。これを超えるゴルフ競技は存在しない。しかし寂しいことに、世界のゴルフ界の超一流選手は日本オープンに参戦していない。一方彼らは中国でのメジャー競技には参戦している。何故か? 機会があれば述べたい。

 裵選手、金選手など韓国選手は、ゴルフ競技や練習の環境に恵まれていない母国・韓国を離れ、日本語だけでなく、英語も覚え、日本や世界のゴルフ界で厳しい試合にいつも挑んできている。一方日本選手は、日本の国内にへばり付き、世界の強豪相手と日頃戦ってこなかった。往年の尾崎選手、青木選手なども同じであった。

 球聖ボビー・ジョーンズ、ジャック・ニクラウスなど多くの超一流プレーヤーは、「一流選手とは、ここ一番という最重要場面での勝負に勝てる人物である」と異口同音に主張している。日本の解説者や報道者は、「○○選手は、最後まで諦めないで頑張ったから優勝できた」、「最後まで我慢のゴルフに徹したから勝てた」とよく主張する。メジャー競技は、非諦観と忍耐で勝てる甘くない。

 韓国選手が優勝したのは「強い」からであり、一流選手だからである。日本選手が優勝できないのは「弱い」からであり、二流選手だからである。「精神力」、「技術力」、「戦略構築力」、「体力」などあらゆるパワーが総合され、ここ一番に集中して発揮される。根源的には「頭脳力」の勝負で勝てたのである。

 「強いから優勝した」、「弱いから負けた」という本当のコトを言うTV報道の解説者は、筆者の知る限り、昔は別として、最近は皆無と思う。彼らは、本当のコトを言えば、視聴者やゴルフ界から批判されたり、放逐されることを恐れているからか? それでは「解説者の資格」がない。日本の元プロ・ゴルフ選手が解説者になることが多い。そのため他の選手に本当のコトを言うことを遠慮しているのだろうか? 又は分析すら出来ない解説者なのだろうか? 
日本の解説者や報道者は、本当のコトを語れない? 或いは本当のコトが分かっていない?

 石川 遼選手は、尾崎将司選手と同様に「マスターズに優勝することが夢です」と公言している。ならば何故、一刻も早く、日本を脱出し、米国など海外に住んで、戦うことをしないのだろうか。「英会話のコマ―シャル」に出て宣伝するなら、自らも米国で住んで宣伝してはどうか。今のままでは、石川選手に「未来は無い」。「日本で一流選手、世界で二流選手」という尾崎選手の二の前になるだろう。

 筆者は、ゴルフ競技や石川選手の解説をすることが真意ではない。真意は、①日本は、その全分野と全階層に於いて「構造的危機」に直面していること、②日本は、人類史に類のない「世界の激変時代」の波に飲み込まれ、革命的変革が求められていること、③その事実を証明するほんの一例として、「エンタテイメント」が具現化された「日本オープン」と「日本人プロ選手」の実態を述べたかったことである。
つづく
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