PMプロの知恵コーナー
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ダブリンの風(74) 「行為せざる者」

高根 宏士:8月号

 先日の全英オープンは印象深かった。タイガーウッズや石川遼は2日目に早々と姿を消してしまい、マスコミ的な意味では興味が乏しくなったように見えた。ところが三日目を終了したところで59歳のトムワトソンが首位に立っていた。持ち前の素晴らしいショットは健在で、パットもよく決まっていた。このまま優勝すると、全英オープンではトム・モリス・シニアが46歳で立てた最年長記録を142年ぶりに、更新することになる、しかも13歳もオーバーしてのことである。最年長記録としては4大メジャーの48歳も更新し、米ツアーの52歳の記録も大幅に更新することになった。
 最終日の4日目も17ホールまでは首位を保っていた。18ホールもティーショットは確実にフェアウエイをキープし、2打目も素晴らしかったが、わずかにグリーンをオーバーし、返しがホールから2mほどしか寄らなかった。そして2mのパットをきちんと打てずにボギーにしてしまった。そして前の組で廻っていて、18ホールでバーディを出したシンクに並ばれてしまい、プレーオフで破れ142年ぶりの快挙は幻で終わってしまった。
 このテレビ中継で、終盤近くに解説を担当していた方が珍しいことを云った。
 「解説者としては云ってはいけないことだと思いますが、この場面ではワトソンに勝たせたいですね」
 通常、解説者は戦っているプレーヤの次の場面の予測をしたり、やったことの解説や批判をしたりすることが多い。これはゴルフでも、野球でもサッカーでも同じである。今回の場合でもワトソンのパットを問題にしたかもしれない。しかし今回の発言は人間味があってよかった。
 日常放映されているスポーツ解説者の言葉を聞いていると、戦っているプレーヤよりも解説者の方が、数ランクレベルが高いように見えることが多い。特に野球の監督に対する批判ではそれが顕著である。監督の採った戦術が失敗したりすると、したり顔で、その失敗を批判している。ところがその解説者が、請われて監督に就任すると批判していた監督よりも出来がよくないことはざらにある。それでもスポーツの解説者は一応プレーヤや監督として実績のあることが多い。実績がないのに解説者とか評論家といわれる分野に政治や経済がある。政治評論家とか経済評論家といわれる人達で実績のあるものはあまりいない。そしてテレビでは自分が世界を動かしているようなつもりで偉そうにしゃべっている。しかし批判の対象になっている人間の立場になったらその評論家は必ず失敗する。
 この根底には「行為するものにとって、行為せざるものは最も厳しい批判者である」という経験則がある。評論家(解説者も含めて)は自分では「行為」をしない。「行為」をしない人間には失敗はない。したがって評論家の立場を続けていると、自分は絶対に失敗をしない。そして「行為する者」の失敗が愚かに見えてくる。その愚かさ加減を論うようになる。しかも批判する側は1局面のみを取り上げて、それに合った対案をできるかどうかとは関係なく云えるから、威勢がよいように見える。しかし行為する者は全体の局面を最終結果に対する責任も踏まえて決断し、実行しなければならない。「実施したこと、成果に対する批判は、その成果を出すために必要だった力の1%あればできる」といわれるが、このことを忘れて相手の1%の力しかないのに、自分は相手よりも力があると錯覚している評論家は多い。
 プロジェクトマネジメントの世界でもこのような場面が診られることがある。母体組織にマルチプロジェクトマネジメントを担当するスタッフ部門のあるところは多い。PMOといわれるのはその1つである。PMOがありながら、その母体組織に「プロジェクト崩れ」が頻発している場合、多くはPMOに問題がある。そのようなところではラインの個々のプロジェクトの問題点を後追いで、取り上げ、批判し、叩いでいるだけで、自分はレベルが高いと思っている自覚のないPMOが多い。PMOは解説者でもなければ評論家でもない。ましてや自分の組織のプロジェクトの批判者であってならない。また裁判官でもない。PMOは「母体組織のプロジェクトが大過なく、できれば大きな成功をするように全体に眼を配り、事前にリスクの芽を摘み、動いているプロジェクトの支援をし、母体組織全体のレベルを上げる」ことに責任を持たなければならない。また母体組織の長はPMOにそのような意識を持った人材を配置すべきである。
 あるソフトウエア会社のシステム部長とゴルフをやった時、彼が  「我々がOBを打つと、うちのPMOは(OBを打ってはいけない。OBを打った原因を出せ)というだけで、何故我々がOBを打ったのか、どうすればOBを打たないようにできるかをアドバイスしてくれない」
 と話していた。そしてそのようなPMOは本当に必要なのかとゴルフを忘れて悲憤慷慨していた。

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