PMプロの知恵コーナー
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ダブリンの風(46) 「コンテキスト」

高根 宏士:1月号

 あけましておめでとうございます。昨年中は拙文を読んでいただき、有難うございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

 今回は昔に戻りまして20年ほど前の経験を紹介いたします。
 IFIPの大会に出席するため、ダブリンに行ったことがあった。大会は5日間だったが、3日目の歴代会長が出席するホテルのスイートルームでのパーティも終わり、ほっとした次の日の夕方宿泊していたホテルの部屋で転倒し、背骨を打ってしまった。救急車で病院に担ぎ込まれ、そのまま入院することになった。6人部屋だった。同室の方々にはダブリンに住んでいる人やリバプールから来ているものもいた。同室の方々や看護婦の人々とも仲良くなった。同室の方々は私が痛そうな表情をするので、何か力になれないかと気を使ってくれ、看護婦の方からはコーヒーを入れてきてもらったりした。担当になった白人の先生は一所懸命診てくれた。
 貴重な経験だった。このような経験は滅多にできないことである。今でも病院でお会いした人々には感謝している。いい思い出を作ってもらった。
 入院してから3日目に担当の先生から、「自分が診たところでは大丈夫と思う。しかし自分は骨の専門ではないので、もし望むなら骨の専門医を呼ぼうか」といわれた。そこで専門医を呼んでもらった。黒人の先生だった。先生は私の体を触診して、診断の結果を話してくれた。ところが先生の話す英語を私はほとんど理解できなかった。そこで「私は日本人で英語はあまりできないから、ゆっくり話してください」と頼んだ。先生は可能な限りゆっくりと話してくれた。ところが困ったことにそれでも理解できなかった。私も困ったが先生もどうしてよいかわからなくなっていたようである。ちょうどそのとき親しくなった看護婦が病室の前を通った。そこで彼女を呼び止めて「先生が云うことがわからないから、説明してくれ」と頼んだ。先生が英語で話すと彼女がまた英語で私に話すということである。英語で英語の通訳をしてもらうことになった。彼女が話すことは理解できた。先生の云っていることは「骨は大丈夫」という簡単なことだった。何故わからなかったのか。それは骨を先生は「ブーン」と発音していた。私は、骨は「ボーン」とばかり思っていた。看護婦は「ボーン」と発音してくれた。  我々は日本語だったら同じ意味のことを関西弁でいわれようと東北弁でいわれようとほとんど理解できる。それは関西弁や東北弁の発音を明確に聞き取っているのではなく、日本語としての文脈すなわちコンテキストを把握しているからである。骨の発音が少し変わっただけでそれが理解できないのは私が英語のコンテキストを把握していないからであった。このコンテキストには狭い意味の文脈だけでなく、それを含む大きな文化的、体験的背景も含まれるのだろうと思う。
 最近気になる経験をした。それはシステム開発の最後のフェーズになる「システム移行」についてあるところで話をしたときである。相手は5人であった。システム移行計画における留意事項、システム移行に失敗した時の対応計画(コンテンジェンシープラン)を具体的にすること、データのバックアップ対策、準備、移行直前の確認事項等について話した。反応が分かれた。2人は非常に参考になった。これから意識して実践したいといわれた。1人は大変参考になったが、これは自分の上司に聞かせたらもっと良かったと思うといわれた。残りの2人は話されていることはわかりきったことであり、いまさら改めて聞くこともないということであった。その背景を尋ねてみると最初の二人のうち一人はこれまでに1度システム移行の現場でバタバタしたということである。もう一人はまだ経験していないが、現在進めているプロジェクトでのシステム移行について顧客とこれから打ち合わせをしようとしているということである。2番目の反応をした人は自分が参加しているプロジェクトでのシステム移行についてプロジェクトリーダがもたもたして方針や手順がさっぱり見えないとこぼしていた。最後の反応をした2人はシステム移行の現場に立ち会ったことはなく、近い将来にそのようなことに立ち会う予定もないということであった。ソフトウエアの開発にはたずさわっているが、そのソフトウエアを使うシステムが動く現場を見たりすることはないらしい。ひたすらソフトウエアの開発作業だけで、意識としては個人として端末に向かっているだけ、できたらその成果物を決められた宛先に送るだけだということである。
 これらの3者には明白にシステム移行についてのコンテキストの把握に対する違いがある。この中で危険を感じたのは最後の反応をした2人である。同じ情報を発信しても相手のコンテキストの中身に注意しないと発信した情報は所期の目的を達しないだけでなく、誤解、曲解、無理解、無視、見当はずれの軽侮を招くことにもなりかねない。
 これらのリスクを軽減するためにはできるだけ実感として感じられる生身の経験、生身のプレッシャを感じさせること、広くは文化の背景についての子供の頃からの体験をさせることが必要ではないだろうか。このようなことを忘れてPC画面と携帯とゲーム機に向き合う時間ばかりを増やしていくと、各個人のコンテキストを把握する能力を貧困にさせ、社会を有機的なつながりのある場から個人がばらばらに存在するだけの「孤独の集まり」に移行させてしまう危険性を感じる。家庭崩壊や親子間での殺人などが多くなってきているのはコンテキストを理解する能力がなくなってきたからではないだろうか。
以上

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