先月号 次号 板倉 稔 :12月号

プロジェクト・コミュニケーション・文化(第九回)


 今回は日本の文化的特徴「虫の視点と神の視点」が、「改善とフレーム」にどの様に影響しているかについて話します。
 「日本人は虫の視点からものを見、欧米は神の視点からものを見る」と言うのは、モントリオール大学の金谷先生の著書「英語にも主語はなかった」(講談社選書メチエ)で述べられている主張である。
 金谷先生は、虫の視点を、NHK教育テレビ「シリーズ日本語」での実験を例に挙げて解説している。川端康成の「雪国」の冒頭部分「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」から想起されるのは、時間の推移と共に場面が刻々変化していく様である。これを読んだ人に絵を描いてもらうと、「汽車の窓を通して、雪国の様子が見える絵」が描かれる。
一方、E. サイデンステッカーの訳「The train came out of the tunnel into the snow country」をモントリオール大学の学生に読んでもらって絵を書いてもらった所、トンネルから汽車が出てくる絵を書いた。つまり、原文では、視点が自分であるのに対し、訳文では視点が汽車の外に移動している。
 金谷先生は、他の事例も引用して、日本人は自分の視点(金谷先生は虫の視点と呼んでいる)からものを見ようとするのに対し、欧米(推測だが、モントリオールなので、英仏語圏を想像した)は、空中の視点(金谷先生は神の視点と呼んでいる)からものを見ようとしているのではなかろうかと言う仮説である。
 この仮説は、様々な現象を、説明することができる。 日本語に二人称が沢山あるが、これも、虫の視点で説明できる。虫の視点(自分)からの距離に応じて二人称が複数用意されている。お前と言うと自分より目下だろう。貴方と言うと同等が目上だ。距離が分からないときは、二人称が社長になってしまう。盛り場では、みんな「社長!」だ。私は国語学者ではないので、厳密では無いかもしれないが、この様に、日本語の二人称は各々が距離を持っていそうだ。
英語だと、youと冷たく云うだけだ。空中から見れば、人が二人いて、片方が私であれば、相手はyouしかいない。距離はないのである。
 もう一つ事例を挙げよう。先日、第三回世界ソフトウェア品質会議に行ってきたが、欧米の発表の多くが、間口方向に広い発表である。一方、日本の発表は奥行き方向に深い発表が多い。勿論例外もあるが概してこう言える。つまり、空中からみると間口しか見えないのではなかろうか。一方、虫の視点でものをみると詳細が見えて、掘り下げる方向に考えが行くのではなかろうか。
 空中からものを見ると、詳細は見えないが大枠が見える。一方、虫の視点からは、詳細が見えるが、大枠が見えない。虫の視点からは、詳細が見えるから、細かい改善事項がよく見える。トヨタ流(日本流だった)の改善が進むことになるし、「現地現物」と言う言葉が意味を持ってくる。一方、欧米は、これが中々上手くいかない。しかし、枠組を作るのは上手い。第一回で述べた「枠組みを米国が作り、枠組みの中に実際のPRACTICEをためたのは日本である」のは、この視点の違いが影響しているのてはなかろうか。コンピュータ関係では、PMBOK, CMM/CMMI, SLCPなどの枠組みが色々発表されているが、日本発の世界に広がった枠組みを私は知らない。
以上の如く、それぞれが良さを持っているとすれば、それぞれの良さを活かすべきではないだろうか。下手に無い物ねだりをして、虫の視点からみて枠組みを作ろうとすれば、虫の視点の良さまでが消してしまう可能性が高い。今、日本のソフトウェア業界は、虫の視点の良さを活かす方策を考えるべきではなかろうか。
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板倉稔
「スーパーSE 板倉稔のホームページ」 http://homepage3.nifty.com/super_se_itakura/