PMプロの知恵コーナー
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サムライPM (017)
武道と士道の系譜 (その14)

シンクリエイト 岩下 幸功 [プロフィール] :10月号

2.武道としての武士道 (011)
⑤ 宮本武蔵 『五輪書』 (1645) (その 6)
⑤ -2. 水之巻 : (その 2)
今号では、下記の項目について、述べる。
01 : 水之巻の前文  《水之巻 序》
02 : 心の持ち方  《兵法、心持の事》
03 : 身の持し方  《兵法、身なりの事》

01 : 水之巻の前文  《水之巻 序》
兵法二天一流の心は、水を手本として、勝利の戦い方《利方の法》を実践するにある。よって、水之巻として、二天一流の太刀の使い方を、この書に書きあらわす。
兵法の道は、細かく心のままに書くことはできないが、たとえ言葉はつづかなくとも、その利は自然と分かるであろう。この書物に記したことについては、ひと言ひと言、一字一字、深く考えてほしい。いい加減な理解では、道を間違えることが多いであろう。
戦い方においては、一人と一人との勝負のように書いているところでも、万人と万人との合戦のことだと心得て、大きく見立てることが大切である。
この兵法の道に関するかぎり、少しでも道を間違え、道に迷いがあっては、誤った道へ堕ちる。この文書を読んだだけでは、兵法の道を会得することはできない。この書物に書いてあることを、自分のことだと受け取って、読むと思わず、習うと思わず、真似ると思わず、それを自分の考えで発明した、自分の戦い方にしてしまうことだ。つねにその立場になって、よくよく工夫すべし。
【解説】
 兵法のような具体的なものは、身体を動員すること無くしては、理解出来ない。口で教えられても理解できない。見ているだけでは理解できない。実行してみてはじめてわかる。「教える・理解する」という言語関係に加えて、「学ぶ・練習する」という非言語的な身体的行為を必要とする。言語表現としての教本「五輪書」は、所与の「それ」を提示するに過ぎない。それを「これか!」と体得できるか否かは本人次第である。これは「PM論」においても同じである。教本としての「ガイドブック」は、所与の「あるべき姿」を提示するに過ぎない。それを「これか!」と体得できるか否かは本人次第である。日々の実戦を通じて、自分自身で発明発見し、自分流PMを確立したときが、教えを「我が物」にしたときである。

02 : 心の持ち方  《兵法、心持の事》
兵法の道において、心の持ち方は、常の心と変ることがあってはならない。日常も戦闘の時も、少しも変らないようにして、心を広くまっ直ぐにし、きつく引っ張らず、少しも弛(たる)まず、心の偏 (かたよ) らぬように、心をまん中に置いて、心を静かに揺 (ゆる) がせて、その揺 (ゆら) ぎの一瞬も、揺らぎ止 (や) まないようにすること。これを、よくよく吟味すべきである。
静かな時でも、心は静かではない。いかに早い時でも、心は少しも早くない。心は身に連動せず、身は心に連動しない。心に用心して、身には用心をしない。心に足らぬことなくして、心を少しも余らせず、表面上の心は弱くとも、底の心を強く、心を人に見透かされないようにする。体の小さい者は、心は大いなることをよく知り、体の大きい者は、心の小さいことをよく知って、体の大きい者も小さい者も、心をまっ直ぐにして、自分の身を基準にしない。そういう心を維持することが肝要である。
心の内が濁らず、心を広くして、広いところに智恵を置くべきである。智恵も心も、しっかりと磨くこと、それが第一である。智恵を研ぎ、天下の理非を弁 (わきま) え、あらゆる物事の善悪を知り、さまざまな武芸の道を広く経験して、世間の人々に少しも惑わされないようにして、はじめて兵法の智恵となる。兵法の智恵においては、よく間違うことがあるものだ。戦場では、万事慌しい時であっても、兵法の道理を極め、動揺しない心 《うごきなき心》、これをよくよく吟味すべし。
【解説】
 次に武蔵は、心の持ち方について教える。心の持ち方は常の心と変ることがないようにする。常の時にも戦闘の時にも、少しも変らないようにすべきである。心は戦闘の道具であり、道具としての心の扱い方、心の用い方を教える。表面の心を弱くして、底の心を強くするという、心の操作を語る。常の時にも戦闘の時にも、心を静かにゆったりとゆるがせる、そのゆるぎの一瞬もゆるぎやまぬようにする。そして、心を人に見透かされないようにしろという。
 戦いに於いては、実践的な智恵が必要である。そのためには、心の内が濁らず、心を広くして、広いところへ智恵を置くべきである。狭い了見からは、物事を客観的に判断することができない。人間の判断はいつも、主観的偏見に縛られ、左右されている。どんな時でも、物事を客観的に判断するだけの、《うごきなき心》 をもつ必要がある。そのためには、さまざま経験をすることで、智恵を研ぎ、天下の理非をわきまえ、あらゆる物事の善悪を知ること、その善悪理非を自分で判断できるようにならなければならない。

03 : 身の持し方  《兵法、身なりの事》
兵法の身なりと身の搆え 《かゝり》 は、顔は、俯 (うつむ) かず、仰向かず、傾かず、歪 (ひず) ませない。目を剥 (む) くような目つきはせず、額に皺を寄せず、眉の間に皺を寄せて、目の玉が動かないようにして、瞬きをせず、目を少し細めるようにして、麗 (うら) らかな感じのする顔である。鼻筋はまっ直ぐにして、下顎 (あご) は、少し前に出す感じである。首は、後ろの筋をまっ直ぐにして、頸 (うなじ) に力を入れて、肩から全身にかけてはつりあいを心がける。両肩を下げ、背筋を真っ直ぐにし、尻を出さず、膝より足の先まで力を入れて、腰をかがめないようにして、腹を張る。楔 (くさび) を締めるという教えのとおり、脇差の鞘 (さや) に腹を持たせ、帯の弛 (ゆる) まないようにする。
総じて、兵法の身なりにおいては、日常の身を戦闘の身とし、戦闘の身を日常の身とすること、これが肝要である。よくよく吟味すべし。
【解説】
 次に、身体についてである。身の搆え 《身のかゝり》 について、顔をどうつくるか、全身をどう整えるか、を教える。
顔は俯 (うつむ) かない、上を向かない、傾けない
顔を歪 (ゆが) めない
目を剥 (む) かない
額に皺 (しわ) を寄せず、眉間に皺を寄せる
目の玉を動かないようにして、瞬 (まばた) きをしない
目を少し細めるようにして、麗 (うら) らかな感じのする顔
鼻筋はまっ直ぐにして、頤 (あご) には少し前に出す気持
首は後ろの筋をまっ直ぐにして、頸 (うなじ) に力を入れる
両肩を下げ、背筋をまっ直ぐ伸ばす
尻を出さず、膝より足の先まで力を入れる
腰が屈まないようにし、腹を張る
 心も身体も戦いの道具である。従って、心の持ち方も身の持し方も、武器の一部としての存在でしかない。常の身 (日常身体) を兵法の身 (戦闘身体) とし、兵法の身を常の身としなければならない。

【余話】
 武蔵に於いては、心も智恵も身体も、太刀や鑓と同じく、兵法の道具である。大工が不断自分の道具を磨くように、武士は日々武器を磨かなければならぬ。その武器が、心であり、知恵であり、身体である。それらを「常の状態」と「戦いの状態」とに違いがないように、日々研ぎ磨く必要がある。これが「朝鍛夕練 (ちょうたんせきれい) 」 (千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする) ということである。常の状態「あるがままの状態」でこそ、相手と対峙するとき、最も十全に力を発揮できるからである。
 次に、世間の通念や人にだまされないことが、兵法の智恵という。他人の判断に頼ることがなければ、人にだまされることもない。そのためには、思考と判断において、他人に依存しない、自立した人間になる必要がある。曇りなき心で、物事を客観的に判断する必要がある。あくまでも合理性を確保するために、心を濁らせるなという。
 武蔵が生きた戦国時代は「個の時代」であった。個人として、自力で、絶対自力で、自分自身を守り、生き残らなければなければならなかった。あらゆる知恵と心と身体を動員して戦うのは、死ぬためではなく、勝つためだ。兵法 (戦い) の智恵とは、勝つための道具なのである。一切の甘えや曖昧さを排する、超合理主義者であり、超リアリストである武蔵ならではの、「武道としての武士道」の知恵である。これは「PM論」にても、学ぶべきことが多い。

(参考文献)
「五輪書」 宮本武蔵 (著)、鎌田茂雄 (訳)、講談社学術文庫、2006年
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