PMP試験部会
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「作らせる文化」と「作る文化」

イデオ・アクト株式会社 代表取締役 PMP 葉山 博昭:6月号

 筆者は長年IT業界(ソフトウェア開発業界)で短い期間ではあったがプログラムの作成から30年近くプロジェクトマネジャー兼SEとして要件定義、基本設計等の全工程の経験と、大型汎用機から最近のオブジェクト指向のVM系の開発の指導の経験、OSの開発から金融機関のアプリケーションの開発まで広く経験してきたので、現在システム開発に関連したプロジェクトマネジメントのコンサルテーション(指導・支援)を行っていても全行程でシステム開発実務のイメージが描けなくて困ったという経験は無い。
筆者がコンサルテーションを行っている顧客はシステム開発を行っている日本でも名だたる大手企業が多いいが、コンサルテーション先のメンバーの殆どはシステム開発の実務経験がなくシステム開発の作業のイメージが全くと言っていいほど描けないようで、このような企業ではWBS、スケジュールを満足に作成することも出来ず、又作業を委託した先からWBS、スケジュールを提出されても評価が出来ない状況が発生している。委託先がしっかりしていて委託元の抜けを補ってくれて順調に行けば良いのですが、昨今システム開発は複雑化し委託元がインテグレーションする責任の範疇に入る作業項目でミスが発生すると取り返しのつかないことになってしまう。そのような企業でも30年、40年前には自らシステム開発の全行程を自ら作業した経験者存在していた時期は企業内でなんとかリカバリ出来もしたが、現在ではそのような経験者の多くは定年で企業を去ってしまったか、技術とは無縁なラインマネジャー、経営者になってしまっており、現場への影響力は無くなってしまっている。特に技術者として技術に明るければ明るいほどラインの出世コースから外れがちで、企業としてのシステム開発のMOTが出来ていない技術系の企業は多い。そのような企業ではトラブルが発生する度に「なんでそんなくだらないことが起きるんだ!」と嘆いている経営者は多いが、自分の会社にシステム開発の技術が無くなっているという自覚のある経営者は少ない。一部システム開発の原体験がないことが問題と気づき社内でシステム開発の全工程の作業を体験するような部隊を編成した有名なSIERもあるようだが、その部隊の力が全社に影響力を発揮するようになるのも時間を要することと思われ、短時間で良い結果が得られるとは思えないが、極一部でも根本の問題に気づいた経営者がいることは救いである。しかし気づくのが遅過ぎたのではないだろうか、問題が大きくなる以前の10年、20年システム開発の実務経験が徐々に無くなっていたこと気づかなかったことは大きなロスであり、企業の技術の本質を見失ったシステム開発関連会社は多い。
 なぜこのような状況になってしまったか?
そこにはぞっとするような文化が醸成されてしまったように思われる、業務・機器・サービスのシステム化を行おうとする企業は、要求仕様を出し、コンピュータメーカー系、大手SIERに丸投げし最終製品を作って来た、要求仕様の詰めが甘くても優越的発注者側の地位を利用しても問題解決を請負側に転嫁してきた。システム開発では要求仕様の提示とシステムのアーキテクチャーを考えることを分離するのが難しい面があるので、発注者側が物作りに全く参加しなかったとは言わないが、自社が作ったというのは強弁が過ぎる。それはスポンサーとしての責任を果たしたと言える範疇であって、実際に要求仕様の提示、概要を描くことと、基本設計、詳細設計、プログラミング、テストで必要とされる技術、ノウハウには大きな隔たりがあり、もの作りに影響する実設計以降の製造、試験を行う過程で様々の問題解決、生産性の向上、品質の向上を行い、最終成果物を作り製造上発生した問題を設計にフィードバックして改善を繰り返すことを行って初めてシステムを作ったと言えるのであって、スポンサー(発注元)として要求仕様を示しスポンサーとして資金を提供することはでは物作りのノウハウなどその発注元に蓄えられるはずもなく、再度自力で実設計以降は行えない。発注元の企業が製品・サービスを提供しているかと言って、物作りが行える企業になったとは言いがたいが、システム開発という物作り自らが行ったと言い張っている企業は多い。
 また丸投げされた受託業者も、下請けに丸投げを繰り返し、自己の企業の技術なのか、下請けの技術なのか、はたまた大本の委託主の技術なのか判然としない。とくにシステム開発、ソフトウェア開発業界では下請け構造が多段で5次、6次下請けということも珍しくなくプロジェクトマネジメントの主体者が誰であるのか、キー技術を組織として展開している企業があるのかも不明なことが多い、6次下請けのフリーの技術者にキーとなる技術を頼ってしまっているような例もある。ソフトウェア開発業界ではこのように技術の蓄積を個人に頼ってしまい、企業として技術を蓄積、技術者間の技術移転を組織立って、システム的に行っている企業は殆ど存在しない。
 この発注者側の物作りが出来るという傲慢さと、組織として物作りに自信を持てない下請け企業の存在は、物作りを疎か、甘く考える風潮を蔓延させることになってしまった。
システム開発のソフトウェア開発では最終的プログラム一行一行を人手によって作成せざるを得ず、最終成果物の品質はこのプログラミング作業の品質に依存することになる、あたり前の話ようだがシステム開発、ソフトウェア開発を生業としている企業の経営者で、プログラム一行一行が自己の企業の製品であるという認識をしている経営者は殆どいない。
筆者の若い時の経験だが、何千もある項目の妥当性をIf文で一項目ずつ同一かと書き何千行もプログラムを書いた技術者がいたが、論理式を用いテーブル全体をコンペアしたら数十行のプログラムで同じ機能が実現出来たことがある。ソフトウェアではこのようにコーディングの善し悪しが大きく製品の品質に影響するが、現在でもコーディングを下位工程と蔑視し末端の技術者の好き勝手にさせており、あまりにも工夫がなく、パソコンの便利さから共通化すべきプログラムをコピペで模写し一部を変えて安易にプログラムを作成している、それがだれにもチェックされることもなく同じ結果が出れば良いとしていることが多いが、運用保守では同様なプログラムが多数存在し、共通して一つのプログラムになっていれば、一カ所変えれば事が足りるのに、不出来なプログラムでは同じ変更を何カ所も行うことになってしまうことが発生してしまう。当然一カ所変えることより何カ所も変える方が作業ミスのリスクは高くなる。新聞を賑わすシステムのトラブルにこのようなくだらないことが原因となっている例は多い。ソフトウェアの開発では共通化、簡素化、顧客業務の実現を融合した仕組みの骨格を作るアーキテクチャーの設計が重要だが、最近物作りが軽視されているのかアーキテクチャーを設計出来る人間が乏しく、力任せに顧客の希望を言われるままに作成し、使用者にとっても分かりにくい酷いシステムが結構多く存在する。
 システム開発はエンジニアリングであり、シンプル・イズ・ベスト、良くできた工学製品は美しいと言われるようにエンジニアリングの基本は生かされなければならないし、決して優しい事ではないと認識する必要がある。物を作ることは地道で長い努力が必要なもので本来高く評価されるべきと思うのだが、ソフトウェア企業の怠慢もあって半途熟練労働者が多く、生産性もここ何十年もあがらず、技術者の単価は上がるどころか最近では下がってしまっている。このように地道な努力と本来高い能力で工夫のいる技術を要するにも関わらず、長時間労働で安い報酬となってしまった現在の業界に優秀な人材は集まらなくなっている。一方システムを作らせる側の発注元は、大手有名企業なので給与水準は高く人材は集めやすい状況になっている。手を汚さず楽をして高い報酬をえられる側に大学生の就職で人気があるのも当然といえば当然である。筆者の大学卒業当時は理系技術者の生涯賃金は文系卒業者よりも10%程度高かった記憶があるが、現在では逆転し理系技術者の生涯賃金は5000万円ほど少ないそうである。難しい入試をくぐり抜け、高い授業料を支払っても、就職し安い賃金では理系離れは今後も加速するのは当たり前である。大学でシステム開発関係の学科を卒業してもシステム開発を行う作る側の企業よりも作らせる側の企業に入社する人材が多い、大学の教授もソフトウェア会社への就職を進めない、就職氷河期と言われても、ソフトウェア会社への就職を希望する大学生は少ない。作る側の企業で物作りの中核を担う理系の人材を採用出来ないことはより技術の低下を招く結果となっている。
 この3、40年の間に日本は自らの手を汚して「作る文化」よりも自らの手を汚さないですむ「作らせる文化」が優位に立つ社会に変化してしまっている。多段な下請け構造は自ら作る文化より作らせる文化に与し自ら手を汚すことなく、中間で不労利益を享受しようとする企業の増加の結果でもある。不用な中間業者を削除することで、コストは20、30〜50%は下げられ、実際に物作りの最先端にいる技術者の待遇は目を見張るほど改善する。
 現在100年に一度の経済危機と言われているが、果たしてこの経済危機を切り抜けても、資源の無い日本は他国が追随出来ないより優れた物を作る以外、経済的優位に立つことは出来ないと思われるが、「作る文化」が廃れている状況では戦後続いてきた国際的優位を再現することは難しいのではないかと思っている。金が金を生み、手を汚さず莫大な利益を欲するという愚かしい強欲資本主義から脱却するには、「自ら作る文化」に回帰し地道に努力することが報われる格差の少なく、中庸な人々が主流となり安心出来る健全な社会がくることを願ってやまない。
以上
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