PMプロの知恵コーナー
次号

「海外でのIT プロジェクト実践 (1)」
(度胸と挑戦)

向後 忠明:4月号

 このエッセーーは某エンジニアリング会社から専門分野(化学)の異なる電気通信を主業とする会社(N社)の国際戦略子会社(NI社)に出向し、1年5ヶ月たった1989年4月頃の話から始まります。

 電気通信に関する技術知識も、一緒に仕事をしてきたNI社の仲間から手取り足取り教えてもらい、何とか恥をかかずにこれまでやってきました。
 まさに40歳代からの手習いでした。そして、残りの出向期間は今までやってきた仕事の整理や報告書作りなどで悠々と過ごすことを考えていました。

 そのような時に、NI社の親会社(N社)のトップとT国の大統領の話としてT国の金融システムの開発・構築の案件が持ち上がってきました。
 この頃は未だ、N社のIT専門会社(データ会社)は海外の経験もプロジェクトマネジャも育っていない時期でしたが、それでも、この案件の内容から見て私はその会社が本案件をやるものと思い、相変わらず悠々自適に過ごしていました。

 ところが、それから1週間もたたない内にN社の役員から“T国の案件で話がある”との呼び出しがかかりました。この時、いやな予感がしましたが早速呼ばれた場所に出かけて行きました。
 席に座るとNI社の社長からN社の人達に私の経歴を説明され、“かくかくしかじかでこの案件はこの人だけしか出来ません”と言うような話がなされました。そして、私の意見など聞くことも無く、この案件は私がやるような話になっていました。
 案件の内容はN社の担当から簡単に説明されましたが、詳しい事情もわからないまま既成事実のように私が本件のプロジェクトマネジャと指名されてしまいました。
 まったくの寝耳に水であり、出向期間も説明したように7ヶ月を切っていて、いったい何をN社もNI社も考えているのだろうと“驚きと困惑”が錯綜し、一日“ボー”としていました。

 そして翌日、気を取り戻し、本プロジェクトへの参加を断るためNI社の社長室にでかけました。
 しかし、この時社長は、このプロジェクトは前述のトップ同志の約束であり、N社としても断るわけにいかないこと、海外においてこの種のプロジェクトを実施し、まとめることの出来る人材がN社全体見回しても誰もいない、またもしこの仕事が失敗したり、断ったりするとN社の信用問題になる等々、N社側の事情ばかりの話をしていました。

 この当時では、N社はグループ会社を含め、国内ではこの種の大型プロジェクトを手がけているが、いざ海外のプロジェクトとなるとこの当時では誰もいないのも事実でした。
 そのためにエンジニアリング会社から私たちのような人間がその指導のために出向していたのですから!!!
 しかし、それにしても、この分野での“ど素人”にこのように重要な仕事を任せると言うことはどのような魂胆だろうと考えてしまいました。
 自らの失敗を避ける公務員やエリートキャリアーに良くある現象ですが、そう思いたくもありませんでした。
 しかし、楽観的かつ人の良い私は、このように困った人達が出てくると、前後の見境なく、“何とかしてやろう”また“何とかなるだろう”との気持ちが徐々に強くなり、結果的には条件をつけ引き受けることにしました。
 その条件は基本設計が、契約交渉を入れても全体7ヶ月であり、丁度残りの出向期間7ヶ月と符合するのでその期間だけと言うことでした。
 ところで、引き受けた後、本プロジェクトの大前提である顧客要求条件が何もないことがわかりました。
 その要件とは、唯一“T国に日本と同じ全銀システムを入れたい”と言うことでした。

 現在では周知の事実であるが“ITプロジェクトの失敗”の原因のひとつは“顧客要求条件の曖昧さ”である。
 まさにこのプロジェクトはその典型例だと思います。ましてや、このプロジェクトは海外の顧客を対象とし、日本でも始めての大型ITシステム開発・構築に関するプロジェクトであり、未知数も多く何がおきるかわからない代物でした。

 あれから今、16年ぐらいたちますが、改めて考えてみると、このプロジェクトを引き受けた自分がなんとも無謀なことであったか、身震いをする今日この頃です。

 表題にて“度胸と挑戦”とはよく言ったものですが、これはプロジェクトマネジャに備えていなければならない資質の一部と私は思っています。
 しかし、あまり節操なく案件を引き受けると事故の基になります。このためには自分の、実践経験と相応の知識に対する自身と自覚を持って挑戦的に仕事をすることが必要です。挑戦はそれをさらに高めるために重要な要素徒なります。
 よく、プロジェクトマネジャのKKD(経験、感、度胸)といわれていますが、これに知識(Knowledge)のKを入れた3KDが、私が本プロジェクトを引き受けた時の基本的な心情であり、モットーでもありました。
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